わいはただの大工でしかない」父と子 ー5

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

淡路屋の輪木から、七百五十石積みの大船が淀川に滑り出た。

 船大工たちが歓声を上げる。

 七兵衛から「ようやった」と言われて肩を叩かれた伊三郎は、照れ臭そうに笑っている。

 —だが、喜ぶのはまだ早い。

 いかに川幅が広い淀川でも、海上帆走用の大船が川を下って海に出るのは容易でない。

 三艘の先駆け船が曳航しているものの、七百五十石積みの大船の動きは安定していない。

 —これはまずいぞ。

 淀川は河口に近づけば近づくほど砂洲が多くなり、満潮でも外艫を引っ掛けてしまうことが多い。

 それでも操船に慣れた五百石積み船ならともかく、すべてに大きな七百五十石積みの大船では、相当の困難が伴う。

 大船を追うように、船大工たちは川沿いの道を駆けた。弥八郎も彼らに続く。背後を見ると、七兵衛を乗せた駕籠の脇を伊三郎が懸命に走っている。

 しばらく行くと、突然、大船が止まった。

「どうしたんや!」

「砂洲に引っ掛けたんやないか!」

 船大工たちが口々に喚く。

 川の真ん中で立ち往生していることから、それは間違いなさそうだ。

 七百五十石積み船を建造している最中さなかから、弥八郎は大坂での船造りに限界を感じていた。大坂で千石積み以上の大船を造っても淀川を下らせねばならず、よほどの幸運でもない限り、砂洲に引っ掛からずに海にたどり着くことはできない。

 しかも港としての大坂は、木津川口を利用する河口港であり、浅瀬が多く水路は狭いため、船を湾外に出すまで、たいへん難しい舵取りを要求される。

 だからといって堺や住吉も堆積物で遠浅となっているので、大船を沖まで出すのは容易でない。

 大船は動きを止めていた。先駆け船が曳航しようとしているが、どうやら動きそうにない。

「中洲にはまったか」

「へい、そのようで」

 七兵衛と伊三郎の会話が聞こえる。

 続いて船上から、何人かの船子が飛び込むのが見えた。

 それから半刻ほどして、ようやく船が動き出した。だがしばらく進むと、再び動かなくなった。そうしたことが何度か繰り返され、夜になって、ようやく船は海上に出た。

 —七百五十石積みであの有様では、千石船では無理だ。

 だが七兵衛の発想は、全く逆だった。

「こいつは川床を大掃除しないとな」

「大掃除と仰せですか」

 伊三郎が首をかしげる。

「ああ、淀川の中洲から九条島まで、すべての土砂を取りけるのさ」

 —船を出せないのは、船の大きさに問題があるのではなく、淀川の河口にたまった土砂にあるというのだな。つまり水の通りをよくするために、湾内の土を取り除けるというのか。果たして、そんなことができるのか。

 あまりに壮大な話に、弥八郎は戸惑った。

「それは、また大きな話ですな」

 伊三郎が苦笑する。伊三郎も本気にしていないのだ。

 しかしこの十数年後、七兵衛の淀川河口開削事業によって大坂湾は遠浅の良港となる。それにより、どのような大船でも容易に外海に出せるようになる。

 その夜、弥八郎は七兵衛の大坂屋敷を訪れた。

「何だ、お前さんかい」

 障子が開き、庭に控えていた弥八郎の姿を七兵衛が認めた。

「こんな夜分に申し訳ありません」

「それは構わん。宿の主が淡路屋の使いを庭に通したと言うから、小僧かと思っていたが、お前さんとはな。いいから上がんなよ」

 七兵衛が手招きする。

「ご無礼いたします」と言いながら、弥八郎が座敷に上がった。

「あれから、文句の一つも言わずに働いていると聞いたぞ」

「は、はい」

「あの外艫では駄目だと思っていたんだろう」

「ええ、まあ」

「それが分かっていて、なぜ言わなかった!」

「えっ」

 弥八郎は驚いた。七兵衛の言っていることが矛盾していると思ったからだ。

「お前さんが一人前の大工になりたいなら、己の考えを包み隠さず、伊三郎に告げるべきだろう」

「しかし—」

「お前の言いたいことは分かる。でもわいは、お前さんなら周囲を巻き込みながら、お前さん流の外艫を造りおおせると思っていた」

 —今更、それはないだろう。

 弥八郎は悪態をつきたい気持ちを抑えた。

「仕事というのは、言われたことを、ただやればいいってもんじゃない。己の考えや技をなりもの(成果物)に反映できてこそ、初めて仕事をしたと言えるんだ」

「でも連中は—、いや淡路屋の皆さんは、わいのことを仲間扱いせず、今でも他所者のような目で見ています。わいには、指示された仕事を滞りなくこなすことしかできません」

「それじゃ、お前は一人前の大工にはなれない。大工どころか、人と一緒にする仕事は何もできない。男夜鷹にでもなるしかないな」

 —何てこと言いやがる!

 いかに恩人の七兵衛の言葉でも、弥八郎は頭にきた。

「おい、今、お前さんは怒っているな」

「はい!」

「お前さんは怒りを抑えられない。つまりお前さんの主人は怒りなんだ」

「何を仰せで!」

「いや、お前さんは怒りに支配されている。お前さんは怒りの犬でしかないんだ」

「そんなことはない!」

 弥八郎は、わき上がる怒りを持て余していた。

「わいだって、昔はお前さんと同じだった」

 七兵衛がしんみりとした口調で言う。

「わいは伊勢の田舎から出てきて江戸で車力(車夫)になった。最初は大人たちから馬鹿にされ、毎日のように頭に来ていた。幸いにして体がでかくて力も強かったので、大人だろうと、気に食わない野郎は力でねじ伏せていた」

 七兵衛は大柄で、その身長は五尺八寸(約百七十五センチメートル)近くに及ぶ。

「だがな、怒りに任せて相手をのしたところで何も変わらないと気づいたんだ。それから、わいは怒りや不満といった負の感情の主人になろうと決意した」

「負の感情の主人と—」

 弥八郎にとって感情を支配するという感覚は、よく分からない。

「そうだよ。馬鹿にされても叩かれても、にこにこしていたんだ。すると不思議なことに、次第に皆は打ち解けてきた。気づいてみたら、多くの者たちを引き連れてくちいれや材木屋をやっていた」

 七兵衛の顔に一瞬、口惜しそうな影がよぎる。おそらく当時を思い出しているのだろう。

「怒りや不満といった負の感情の主人になってから、わいの運は開けてきた。だから今でも、わいは負の感情を表に出さない。出したが最後、人も運も逃げていくのを知っているからさ」

 —そういうことか。

 いつも笑みを絶やさず、誰に対しても腰の低い七兵衛には、そうした秘訣があったのだ。

「つまり、いくら懸命に仕事をしても、怒りや不満が顔に出てしまえば、人とうまくやっていけず、運は開けてこないと仰せなのですね」

「その通りだ」

 七兵衛の顔に初めて笑みが浮かんだ。

「お前さんは淡路屋の連中を巻き込み、外艫一つすら思い通りに造れなかった。つまりただの大工にはなれても、人の上に立つ大工にはなれない」

 —そうだ。わいはただの大工でしかないんだ。

 打ちひしがれるような徒労感が押し寄せてくる。

 —だが、これであきらめたらおしまいだ!

「七兵衛さん、もう一度、やらせて下さい」

「もう一度だと。何抜かしてやがる。この世はな、一度でもしくじれば、それでおしまいなんだ。お前は塩飽に戻って嘉右衛門さんに詫びを入れろ。それが一番いい」

 —そういうことだったのか。

 七兵衛は、弥八郎の才能を買って大坂に送り込んだのではなく、弥八郎に大坂という大海を見聞させ、自らの至らなさを覚らせ、塩飽で己の分を全うさせようとしていたのだ。

 だが弥八郎は、塩飽に戻る気など毛頭なかった。

 —これくらいのことで、わいと市蔵さんの夢をあきらめるわけにはいかねえ。

 口をついて言葉が出る。

「それじゃ、七兵衛さんは一度もしくじらなかったんですか」

「何だと」

「先ほどの話にもあったように、若いうちは、何をするにもしくじりながら覚えていくんじゃないんですか。そのお陰で、今の七兵衛さんがあるんでしょう」

「お前さんは—」

 そこまで言ったところで口をつぐんだ七兵衛は、「やれやれ」といった調子で言った。

「どうやら、一本取られたな。いかにも、わいにも失敗や挫折はあった」

「それでは—」

「まだやりたければ、やらせてやってもいいさ。だが、無駄な時間になるかもよ」

「覚悟の上です」

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男たちの船出

伊東潤

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0mo_om0 「仕事というのは、言われたことを、ただやればいいってもんじゃない。己の考えや技を作なり物もの(成果物)に反映できてこそ、初めて仕事をしたと言えるんだ」父と子 ー5|伊東潤 @jun_ito_info | 2年弱前 replyretweetfavorite