1982年のこと。「神武(天皇)以来の天才」と称された私(当時は加藤九段)もデビューから約30年が経ち、ベテランと呼ばれ始めた頃の話です。
久しぶりに名人戦への挑戦権を得た私の前に立ちはだかったのは、あの中原誠さんでした。
ご存じの方も多いでしょうが、中原さんは1972年に大山さんから名人の座を奪取、それから名人戦9連覇中の〝絶対王者〞で、「ときは中原時代」といわれるほど勢いがありました。
そんな中原さんと私との戦いは、〝死闘〞そのもの。名人戦は七番勝負なのですが、「千日手」(同一の局面が4度現れたとき、指し直しになる)や「持将棋」(引き分け)という、「勝負なし」になる局面が3度も起こりました。
千日手でも持将棋でも「即日指し直し」が原則ですが、当時はタイトル戦に限り「後日指し直し」という規定でした。ですから4月に始まった勝負が、なんと7月末までなだれ込むという長丁場の勝負になりました。 そんな破天荒ともいえる流れの第10局目、私は次第に苦しい局面へと追い詰められていきました。
ところがどうでしょう、あの中原さんにも疑問手が出て、勝負の行方はまったく読めなくなってきたのです。
諦めた直後こそ、切り替えのチャンス
とはいえ最終局になったとき、私は「絶対に勝てない」と諦めました。
ただ、そのとき盤面をよく見ると、勝つ手があると気づいたのです。驚いて「あっ、そうか!」と叫んでしまったほどです。
その結果、私は対局を逆転させ、名人位を獲得することができました。
そのときの私は、「自分の力でなく、神様に導かれて勝った」「神様の恵みだ」としか思えませんでした。なぜかというと、いったん観念した直後に、数日前に読んだコルベ神父の言葉を思い出したからです。
コルベ神父とは、1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の位を授けられた、ポーランド人カトリック司祭です。アウシュヴィッツ収容所で、若い男性の身代わりになって亡くなったことで知られています。
そのコルベ神父が、こう説いているのです。
「人間は何度失敗をしても、またとりかかればいい」
この言葉のおかげで、私は視点が変わり、勝つ手に気づくことができたのです。
挑戦は、何度だってできる
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