長い出張のときにどんな本を持っていくかは、ちょっとした悩みの種だ。あまり大量に持っていくのは重いし、でも途中で読むものが何もなくなるのも今一つ負けたようで悔しい。集中的に読めるからこの機会をとらえてそれなりに長目の本も読みたい。が、長すぎる本は敷居も高いし重いし、一方で捨ててこられるほど軽い本は、わざわざ旅先まで持っていくのもばからしい。
そしていろいろ考えて(といっても3分ほど)持ってきても、もちろん予想通りにはいかない。これは長く面倒な本だから読み切れないだろうと思ったら、意外とあっさり読み終えてしまう本もあるし、短いからすぐ終わると思ったらなかなか読み進まない本もある。
今回カンボジアにくるときにも、やはり3分ほど悩みつつかばんに放り込んだのが、ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』(早川書房)の上巻だけだった。これ、原書は分厚いし、そこそこむずかしそうなので、下巻までは絶対に到達しないだろうと思ったからだ。
この本については、実はすでにあちこちで噂はきいていて、自分の訳した本(アビジット・V・バナジー、エスター・デュフロ『貧乏人の経済学』)にも出てきたし、また経済学者・青木昌彦の講演会でも引き合いにだされていた。で、そのまとめはこの本が、経済発展のためには制度が重要だと主張している、というものだった。
で、制度って何?
ここがむずかしいところ。実はいま、世界銀行をはじめ国際援助のいろんな現場で、「制度が重要だ、制度をちゃんとしなければ途上国は発展しない」と繰り返し言われる。でも、じゃあその制度って何ですか、何をよくすればいいんですか、と尋ねると……実に要領を得ないのだ。
あるときは、それは法体系だし、あるときは官庁の組織構造。ときにはその国の文化だったり警察の取締能力だったりするし、宗教的なバックグラウンドだったり、雇用慣行だったり。法律や組織改善であれば何とかできるけれど、文化とか宗教は手を出せるものではない。それが問題だというなら、それはつまりこの国は発展できませんと言っているに等しくないですか、というような話がいっぱい出てくる。援助の現場では、制度というのは「他のことはいろいろやってみましたがうまくいかなかったので、原因よくわからないんです」というのの告白に等しい場合も多い。
しかも制度派の中にもいろいろ派閥がある。上にあげたバナジー&デュフロは、いろいろ実験してみて細かい制度を変えていきましょう、女性の国会議員を義務化してみるとか、教師に求める目標を明確にするとかいうだけで、いろんなことが変わるよ、という一派。青木昌彦は、制度というのはゲーム理論的な枠組みみたいなもので、だから制度も経済的な合理性にあわせて変わるという立場。これに対して、このアセモグル&ロビンソンの本は、制度はなかなか変わらない(つまり経済発展は無理)という悲観的な本だというのが噂に聞いていたところ。
それで、その噂は正しかったか? 上巻だけを読んだところでは、完全に正しくないが、一理ある。この本は、制度——ここでは政治体制や社会構造のこと——が発展を支援する/しない場合をいろいろおもしろい例を通じて挙げてくれる。たとえば、韓国が発展して北朝鮮が貧困なのは、別に民族的な差や地理的な差があるわけではないよね。それが政治体制の差によるものだというのはだれでもわかる。アセモグル&ロビンソンは、社会のある階層が意志決定を独占して他の階層を収奪するような体制と、社会の全階層が意志決定に平等に加わって、共存共栄を目指さざるを得ない体制とを対比させる。そして前者の収奪的な制度は、一時的には発展できても、長期的には行き詰まる、と述べる。だから意志決定にみんなが平等に加わる、包括的な制度がよいのよ、と。
が……経済成長を実現する条件なんて実に多種多様だ。それをこういう単純な一つの類型に落とし込もうという試み自体が、かなり無理なものではある。これまで人類誕生から——というと遡りすぎにしても、まともな意味での文明が生まれてからでも数千年にわたり、人類の99パーセントは極貧の中で暮らしてきた。それが多少なりとも変わったのは、ここ数世紀のことでしかない。その体験をどこまで一般化できるのか? それにその歴史の中で、完全に包括的な制度(ありとあらゆる人が平等に政治参加できた制度)なんてものは一度たりとも存在しなかったし、最も収奪的な制度ですら少しはいろんな人々の参加なしにはあり得ない。だからどんな文明でも、包括的な面も指摘できればそうでない部分もある。こういうでかい議論というのは、なるほど、と思えてすっきりする部分もある一方で、一歩下がって考えてみると、かなり強引で無理があるか、あるいはあまりに一般論になりすぎて実用性を失うか、その両方になってしまいがち。この本の議論もそんな部分はある。
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