◆踊る著作権
実りの少ない打ち合わせが終了した。準備していた企画は不発に終わり、自身の実力のなさを思い知る。枝折(しおり)はエレベーターに乗る気が起きず、とぼとぼと階段を上った。
四階にたどり着き、電子書籍編集部に入る。いつもは静かな部屋がざわめいていた。岩田が仁王立ちして、腹立たしそうに腕を組んでいる。自分のせいかと思ったが、こちらには一瞥もくれない。岩田は虚空をにらみ、ぶつぶつと言っている。
抜き足差し足で自分の席まで行き、椅子に座る。隣の服部に顔を寄せ、なにが起きているのか尋ねた。
「菱沼先生の本、絶版狩りに、かっさらわれたのよ」
なるほど、事態を飲み込めた。
菱沼英子、九年前に死んだ作家。死の十年前から新作は発表されておらず、二十冊ほど出ていた文庫は書店に並ばなくなって久しい。彼女の著作権の管理は、菱沼の死後、娘がおこなっていた。
菱沼の本を入手するには、古書市場を漁るしかない。アマゾンでは古本が高値で取り引きされている。しかし、復刻したからといって書店が新たに棚を用意してくれる可能性は低かった。
ただ、来年は没後十年になる。幸いなことにデジタルデータで原稿が残っていたため、低コストで電子書籍を作れる。
低リスクで、一定数いるファンが、確実に買ってくれる商品。その企画を進めるために、菱沼の娘のもとに電子書籍化の交渉に行く予定になっていた。それが、どこかの誰かに先を越されてしまったのだ。
絶版狩り——編集部でそう呼んでいる業者たちが存在する。彼らは、古書市場で高騰している本の著作権者に接触して、電子書籍化を持ちかける。
彼らは元のデータを持っていないため、本をスキャンしただけの、画像のままの電子書籍を作る。あるいはOCRを使っても、きちんとした校正を経ていない低品質なテキストのまま販売することが多い。
そうした業者が、先に菱沼の娘に接触して、電子書籍化の契約を結んでしまったのだ。
「今からどうにかなるものなんですか」
小声で服部に尋ねる。
「たぶん無理。だから荒れているのよガンさん。別に向こうは犯罪をしているわけではないし、死後十年近く音信不通だったのは、こちら側なわけだし」
「そうですよね」
菱沼の娘にしてみれば不満しかなかっただろう。この十年近く書店に本が供給されておらず、印税が入っていなかったわけだから。
電子書籍化も今まで放置していたから契約すら結んでいない。そこに電子化して収益に繫げるという業者が現れれば、感謝こそすれ追い払う理由はない。後手に回ったこちらが悪い。
とはいえダメージは軽微だ。大物作家の電子化権を奪われたわけではない。そうした作家の著作権を引き継いだ個人や団体には、足繁く通って電子化の許可を取り付けている。たとえば司馬遼太郎の本は、電子書籍編集部の成功事例として喧伝されている。
「くそっ、これも紙の編集部が杜撰な仕事をしていやがるからだ」
岩田の声が編集部に響く。いや、紙の書籍が最後に出版されたのは二十年近く前だから、文芸編集部の落ち度ではない。無茶な苦情を大声で言うと、また社内でうしろ指を差される。枝折は何度か目にしている。廊下で、トイレで、階段で。陰口を叩いている社員たちを。
俺たちの仕事のおこぼれで金を稼いでいる。紙の本がなければ、なにもできない寄生虫。中には岩田に近づき、へらへらと笑いながら「電子の売り上げ、紙の方にくれよ」と言う者もいる。
そうした社内の様子を「うしろから矢を射られるようなものだ」と岩田は常々言っている。
複雑な気持ちだった。枝折自身は、紙の編集部に行きたいと思っている。しかし今勢いがあり、毅然とした態度を取っているのは、電子の編集部の方だ。
斜陽産業。そうした言葉が頭をよぎる。事業が衰退していく時、そこにいる人の心もすさんでいくのかもしれない。
「おい、春日(かすが)、戻ってきたのか」
「はい」
「スケジュール、バッティングさせんなよ」
「手帳をやめて、全てパソコンでスケジュール管理するようにします」
手帳とパソコン、ばらばらの場所に情報を記録していたから、相手への確認を怠った。グーグルカレンダーなら、簡単に確認メールの予定も入れられる。リマインドもしてくれる。ミスを減らすことができるだろう。
枝折の返事に、岩田はにやりと笑みを浮かべる。
「それでいい。謝ったり反省したりしても意味がないからな。ミスをした時は、やり方を改めて同じ失敗をしないように工夫する」
「それは、絶版狩りについても一緒ですよね」
言い過ぎたか。怒られるかと思ったが、岩田は金だらいを転がすような大声で笑った。
「よし、同じミスを防ぐ工夫をするぞ。春日、おまえにその役を任せる」
「えっ」
枝折は驚き、服部に助けを求める視線を向ける。
「春日さん。これはチャンスよ。ガンさん、あなたに仕事を任せたいって言っているわよ」
服部は滅茶苦茶楽しそうだ。
「ついでにBNB専売の件も春日に一任する。おまえを有馬(ありま)さんの正式な窓口にする」
「げげっ」
なにゆえに天敵の担当に。枝折は卒倒しそうになる。
「これで、おまえに任せる大きな仕事は三つだな。春日文庫主任兼、絶版狩り対策本部長兼、BNB専売担当。いやー、仕事がいっぱいで嬉しいよな」
「うええっ」
思わず悲鳴が出る。
「本作りと権利関係のクリアは、紙でも電子でも発生する仕事だ。おまえがやりたかったことに近いだろう」
「はい」
岩田の言うとおりだ。
「よし、仕事に戻れ。来週の会議では、三つの仕事について具体的な進捗を報告しろ」
「頑張ってね、春日さん。私も陰ながら応援しているわよ。大丈夫。死にそうになったら助けてあげるから」
服部は、満面の笑みを浮かべて手を握ってきた。
◆ラス・オブ・ゴート
南雲(なぐも)は出版社のビルから出て、東京のど真ん中のオフィス街を歩きだした。奇妙なことに今日は一人ではない。若い作家と並んでいる。南雲はこの状況に戸惑いながらも、久しく味わっていなかった興奮を覚えていた。
本がもう出ないと言われたのは今年の初頭のことだ。売れ行きが悪い。今後出したからといって、十分な儲けが出る冊数を期待できない。
デビューから二十年弱。十年以上持ったから十分頑張ったと言うべきだろう。しかし、徐々に読者を増やしていたのは作家人生の前半生までだった。あとは下降線をたどり、最後は出版社に取り引きを拒否される結果になった。
本が出なくなることは、家族にまだ伝えていない。南雲は今、弟夫婦とともに住んでいる。一階が小料理屋で、二階が住居。弟は料理人で、その妻が店を手伝っている。
建物は南雲の両親が建てたものだ。そこに息子である南雲が暮らしていることは、なんの問題もない。家はあるから食費を稼げば食っていける。その前提で小説を書き、わずかな収入で生活してきた。その稼ぎがなくなる。
隣を歩く漣野久遠(れんの・くおん)という若い作家も似た状況らしい。実家住まいの準引きこもり。本が出ることで辛うじて金を得ていた。今日明日飢え死ぬことはないが、策を講じなければいずれ貯金が尽きる。
電子書籍——。その未知数の出版形態に誘われて数ヶ月が経つ。わずかな収入にでもなればと思い、パソコンで調べたが、厳しい現実を知るだけだった。