東京から京都に小旅行としゃれこみ、紆余曲折ありながら初めての家族フェス体験も済ませた我々の次なる目的地は私の実家だった。フェス後の足でそのまま名古屋駅へ向かう新幹線に乗り、名駅から稲沢市の実家へ。街灯のない田園地帯の道が妙な落ち着きを与えて、そしていつもどおり玄関をくぐって少しだけ身構えた。ご実家ただいまー孫連れてきたよ―。
自分でもときどきウゼーと思うくらい「家族」というユニット運営に対して意識的だ。妊娠が発覚して以降パートナーに、育児の中で子供に、ときどき猫に対しても「家族」コミュニティのメンバーとしてうまくやっていけるかを尋ねてしまう。そうすることで、「家族」になれなかった子供時代の自分と、その両親を乗り越えようとしている。
私は母の第一子であり、父の第三子である。よく知らんけど恋女房だった初期メンバーのex妻は亡くなり、二期メンの妻として見合いで母が補充され、僕が生まれてしまって今日に至る。私が初めて描いた絵は母によって飾られ、父によって捨てられた。私が前妻を連れて結婚する意思を述べたときに母は祝い、父は「兄姉を差し置いて」と憤慨した。愛には序列があり、どうやら自分は片方の親からそれを満足に得られていない。——そう実感できるときは、概ねこたえる。そしてきっとこれは「家族」として正解ではない有り様だとやんわり思ってきた。
気に入らないことがあればすぐ怒鳴り散らす彼を刺激せぬよう母子で“円満に”生きた地獄ダイニング。テレビや物語に出てくる話とちょっと違うっすねとギャップ萎えしてた幼少期を経て、私は「家族」「父」の理想を描き続けた。それが高校卒業後に父親業を始め即失敗する友人の姿や、家族形成ガチャの当選率は意外と高くない事実を見るにつけて徐々に「なんだみんなそんな感じか」とも思えるようになってきた。そして今、二度の結婚、初めての育児が自分ごととして降り注いだとき、こら大変だわと自覚した。
……なんていうモノローグを挟みつつ、フェス後即新幹線のおれと妻と子供はすっかりくたくたになって到着である。出産直後に上京してお目通ししていた母は「大きくなったわねー!」と数ヶ月の成長に早くも目を細めているのを横目に、子供の服をさっさと剥いて風呂で一通り体を洗う。その後妻に裸の4ヶ月児をパスし、私はそのまま入浴して体を休めた。
服を着替えていたときだった。居間のほうで「あっら——!」という、それまで聞いたことないような70代男性の明るい声が聞こえてきた。えっマジ誰だ。湯だった体をじんわりと冷やしながら戻ると、そこには楽しそうな超絶かわいい赤子と、輪をかけてブチ上がりながら孫をあやして“じいじ”化する父の姿があった。これが噂に聞く孫の祖父母殺しってやつかと思い、同時に「うわきっつー」と引く。ひととおり見渡してから子供を抱いて、妻と2階の寝室へ上がった。