◆時間兵と電子の戦場
金曜日の二十二時。枝折は大学時代から住んでいる部屋で、クッションに鉄拳を叩き込んでいた。
社会人になって二ヶ月近くが経過した。一言で言えばストレスマックス。詳細な言葉で語るなら、精神的な抑圧が肉体の不調を誘発しかねない状態になっている。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。弥生からだ。そういえばゴールデンウィーク以来、顔を合わせていない。ストレスも溜まるはずだ。
「なあ枝折、飲みに行かないか」
「行くわ。どこにでも行く。月でも太陽でも、ロケットに乗って行ってあげる。私は今、現実逃避したい気分なの」
「よし、それなら信州に集合だ。朝まで飲み明かしてもいいぞ。というか飲み明かそう」
「分かった」
スマートフォンを鞄に放り込み、外行きの服に着替える。枝折はアパートを出て、サンダル履きで夜道を駆ける。
信州に着いた。勢いよく引き戸を開ける。
「らっしゃい」
店長の声が響く。店内は半分がテーブル席で、残りが座敷席。その畳敷きの席が、枝折と弥生の特等席になっている。
弥生は既に来ていた。シャツにスキニーパンツという出で立ちで、生ビールのジョッキを持っている。枝折は弥生の向かいに座り、ビールを注文する。
「弥生、あんた、またピアス増えたんじゃない」
「社会人デビューという奴だよ。大学生までの私は、初心な乙女だったからねえ。あんな可憐だった私が、こんな色に染まるなんて」
どの口がそんな台詞を言う。
「それにしても早かったな、ここに着くの」
「高速で来たわよ。たっぷり溜まった愚痴を聞いてもらおうと思ってね」
「だいぶ溜まっているみたいだな。聞いてやるよ。さあ、話せ」
枝折は今週会った有馬の話をする。眼鏡アルパカといった容姿だけでなく、その言動や態度についても大いに非難して同意を求めた。
「なんか、すごいのに当たったみたいだな」
さすがの弥生もドン引きしたようだ。
「あの人、完全に頭おかしい系よ。取引先の担当相手に、初対面で振る話? よくもまあ、あれで社会人やっていると思うわ」
自分より遥かに経験豊富な相手を捕まえて非難する。
「それで、その眼鏡アルパカ氏は、仕事はできるのか?」
「滅茶苦茶有能だそうよ」
「あちゃー、それじゃあ新人の枝折は太刀打ちできないな。ご愁傷様」
弥生に一刀両断されて、ぐぬぬと声を漏らす。
「はあ、本当に世の中思うようには、いかないものよね。希望していた出版社に入れたと思ったら、電子書籍の部署に配属されるなんて」
生ビールが来た。一口ぐびりとやって、弥生の言葉を待つ。
「紙の本は、まったく作れないのか」
「実はね、紙じゃないんだけど、電子書籍専売のレーベルを作ることになったの」
枝折は手短に経緯を話す。
「癖のある二軍選手を集めて一軍と勝負か。面白そうだけど大変そうだな」
「前途多難よ」
座卓に片肘を突き、ぶーたれた顔をする。
「まあ、本作りに関われるならいいじゃないか」
「でもねえ、電子書籍よ。私は紙の本を作りたいの」
「なんにせよ、これで私と枝折は正式なライバルになるな」
「どういうこと」
きょとんとして弥生の顔を見る。
「私と枝折は、スマホの時間を取り合うライバルだよ。電子書籍の敵は、紙の本じゃない。うちのようなネットニュースだったり、スマホのアプリだったり、ゲームだったりする。
今の時代、電車で周りを見回してみな。本や雑誌、新聞を読んでいる人なんていないぜ。手に持っているのはスマホかタブレット。電子書籍は、その主戦場で戦えるコンテンツだよ」
そうか、そういう考え方もあるのか。言われてみれば他の出版社と戦うのではなく、その前に他の娯楽との、時間の奪い合いがある。
「本当は、電子の戦場ではなく、紙の戦場で戦いたいんだけどね」
ため息とともに枝折は言う。
「でも、枝折は電子の部署だろう。紙の部署じゃないだろう」
枝折は弥生に、文芸編集部の芹澤と話したことを伝える。そして、芹澤が新人育成に使っている段ボール番の話をした。
「直接見てもらうことはできないけど、やり方は真似できると思うの。なによりも、そうした訓練って大切でしょう。私も可能な限り時間を割いて練習しているの」
枝折が真面目な顔で言うと、弥生は腕を組んで視線を枝折に寄越した。
「なあ、枝折。おまえ、足元がおろそかになっていないか」
「どういうこと」
「その芹澤編集長のアドバイス、自分の目の前の仕事をしろってことだろう。枝折は真逆のことをしている。車で言えば脇見運転だ。フエツ、事故を起こすなよ」
ドキッとした。あるいは、そうしたことがあるかもしれないと思った。
「あはは、杞憂だよ」
必死に笑い飛ばしながら、枝折はジョッキに残ったビールを勢いよく飲み干した。
「まあ、ストレス発散ぐらいなら付き合ってやるよ」
弥生もジョッキを傾け、二人で新しい一杯を注文した。
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