そこは無理でしょ」感と、奇跡のアジフライ

地元民から愛される絶品メニューがある。キャベツがぱりっと新鮮。漬け物はできる限り自家製。安い。女ひとりもOK。5条件を満たす定食屋を『東京の台所』の著者・大平一枝(おおだいらかずえ)が訪ね歩く。儲けはあるのか? 激安チェーン店が席巻するなか、なぜ地価の高い都会で頑張るのか? 絶滅危惧寸前の過酷な飲食業態、定食屋店主の踏ん張る心の内と、そっとささえる客との物語。初回は元ミシン店という下北沢唯一無二のこの店を紹介する。

 北口と南口の商店街に、恐ろしい速さでチェーン系居酒屋が増えている。
 下北沢駅の高架化による大規模工事で、地価が上がり、大手飲食店しか出店できないからだと、地元ではもっぱらの噂だ。

 京王井の頭線と小田急線が交差するこの街に住んで18年。
 私は、個人経営の小さなビストロやお好み焼き屋、喫茶店、中華料理屋の、ある日突然の閉店を知らせる張り紙を見る衝撃に、いまだ慣れずにいる。
 けれども、改札から少し離れた一番街や東会商店街、茶沢通り沿いなどではまだ、個性的な小さな店が頑張っている。35歳の女性ふたりが始めた山角(さんかく)もそのひとつだ。

 店は、東北沢に抜ける茶沢通り沿いのはずれにある。斜め向かいがスズナリ劇場。両隣は、交番と鰹節問屋だ。
 古いマッチ箱のような小さなビルの一階で、木枠のガラス戸をガラガラと引くと、奥に長い。

舞台やライブを終えた役者やミュージシャンも多いのでご覧の通り

 開店は2012年。地元では駅周辺の再開発反対運動が活発化。いっぽう地価上昇を見込んだ大手飲食店が、虎視眈々と個人商店の立ち退き後を狙い始めた頃だ。

 じつは、今にも倒れそうな古ビルの定食居酒屋を見て、あらあらかわいそうにと内心同情をしていた。下北沢のこんな大変なときに、メインの商店街でもない茶沢通りで店を始めるなんて長続きするのは難しそうだな、と。ほかに半年や1年単位で入れ替わる店をいくつも見ていた。

 店の前の通りを少し歩くと老舗とんかつステーキ店の「かつ良」や、松田優作が通った伝説のバー「レディ・ジェーン」、劇場がはけたあとの役者が毎日のように来る午前3時半まで営業の寿司屋もある。
 古参の強敵揃いで、新参の個人経営の居酒屋は、よほど個性やパンチがないと大変だろうと予想した。
 おまけに、昼12時からの通し営業。大きなオフィスもない下北沢で、23時まで定食を出すという。むうう、それはますます厳しい。

まさかの「イチオシ」かぶり

 ところが、私の想像はものの見事に裏切られた。予約なしに出かけ、満席で断られたのは一度や二度ではない。2016年、『散歩の達人』(交通新聞社)の「食堂100軒」という、漫画家や物書きなど100人が一軒ずつ推薦する特集で、私も選者の末席で寄稿を頼まれた。迷わず山角を推すと、編集部からあっさり断られた。

「すみません。そのお店、ほかに二人推してらっしゃいますんで、ほかをお願いします」

 東京でたった一軒、愛している食堂を推すだけなのに、三人もかぶるとは……。

 山角とは、つまりそういう店なのである。

 なにもかもが安くてボリュームがあって旨い。

 私は、魚のフライを外で食べるのが苦手だった。分厚い衣の中に埋もれている、申し訳程度の薄くて小さな白身を見ると、悲しくなるからである。揚げてしまえば小さな身だってわかるまい、というあざとさや経営の苦しさが、透けて見えるようで辛い。

 しかし、ここでアジフライ定食を食べて、概念が変わった。アジフライってこんな料理だっけ? 大きさ、旨さ、歯ざわり、すべてがまっとう。

アジフライ定食、880円。肉厚でご飯茶碗より大きい       

 フライは皿からはみ出る大きさで分厚い。唇に刺さるのではというほど表面のパン粉はカラッと気持ちよく揚がっているのに、中のアジの身がしっとりしているのは、魚が分厚いからだろう。これに、みずみずしい山盛りキャベツが鉄板の相手役だ。キャベツはひと口食べると、よくよく水にさらしているのがわかる。どんなにメインのおかずがおいしくても、千切りキャベツが乾いていたり、細さがまちまちで少量しかない定食は論外だ。千切りキャベツは刻んで水にさらして、水を切る、じつは手間のかかるサブおかずである。

 これを適当に端折る店は、たいがいすべての料理に愛情と手間が薄い。脇役が好きだから、人は単品でなく定食を頼むのである。そこをもっと大事にしてほしい。

 山角の完璧な千切りキャベツと大きなアジフライのどちらにもたっぷり中濃ソースをかけ、わしわしと白米をかきこむときの多幸感といったら。

 アジフライだけではなく、なにを食べても「あーおいしい」と、胃の奥から言葉がこみ上げる。

 なのに、じつは厨房の女性がちょっと無愛想でおっかない。

 店主の平井加奈子さんは、首をすくめて言った。

「女性ばかり最低限の人数で店を回してるんで、ときどき余裕なくなっちゃうんです。愛想ないってよく言われます。接客に長けた居酒屋より、安くおいしいものを食べられる“町の食堂”になりたいんで……。そこまでいきとどかなかったりします。すみません。私、怖かったですか」

 初めて見る彼女の笑顔に、私はこの取材で掴んだ定食屋の掟を再確認した。できるだけ安く、できるだけおいしくてボリュームのある定食を提供しようとしたら、客に愛想を振りまいている隙はない。みなギリギリの人数でやっているのだ。定食屋の経営はそんなに甘くない。でも、だから私達は毎日、最高の定食を“硬貨”で食べられるのである。

真ん中が平井さん。バイトは9人。昼と夜3人ずつで回す

こだわりは、こだわりを捨てること

 アジフライ、チキン南蛮、コロッケはもちろん、ニラユッケやエビとれんこんのシュウマイなど、すべての一品料理に200円足すと、定食にできる。具沢山の味噌汁、自家製の漬物。ごはんは1回おかわり無料。こういうほっとする料理を昼から23時まで食べられる店は、下北沢にはほかにない。

 なるほど、これは平井さんの作戦勝ちだ。

 もうひとつ、大きな魅力がある。昼から酒を飲めて、つまみの一品料理が全部たまらなくちょうどいい味ということだ。380円のセロリのきんぴら、400円のちくわ天や揚げナスポン酢が、いちいち旨い。つまみによし、200円を足して定食によし。家庭的な惣菜なのに、どれひとつ私は平井さんのレシピをまねできない。何かが決定的に違うプロならではの味、山角にしかない味なのだ。

 ところが料理のこだわりは、意外にも”こだわりを捨てること”だった。

柔らかくて大きいシュウマイ。200円足すと定食になる

「35歳のとき、同い年の飲食のバイト仲間とこの店を始めました。私達が働いていた有楽町の和食屋さんは、土地柄もあって、強いこだわりと主張がありました。たとえば、どこどこの肉をこう食べてもらいたいとか。無農薬、有機農法にこだわった全国の契約農家さんから、旬のものをおまかせで送ってもらっていたので、輸送費をかけた挙句、ニラが5箱同時に届いてしまったこともありました。でも下北沢の客層は、有楽町とは違う。この土地に必要とされている、肩の力の抜けた、おいしいご飯と味噌汁の店をやりたかった」(平井さん)

「これはこう食べてもらいたい」という店主の提案型ではなく、野菜たっぷり、肉たっぷり。魚は大きく、一品でもご飯が食べられて、できたての、いつもそこにある安らぎの味。
 彼女は、この町に求められているのは、こだわりを排除したそういう装置だと気づいたのだ。
 物件を探しだすと、どの飲食店も、単価が目をむくほど安い。しかし、赤ちょうちんや飲み屋、バーはあるが、夜もごはんと味噌汁を出す店がないとわかった。

「やきとん屋さんとか、一品200円からある。有楽町では最低500円です。ならば300~400円のおいしいものを揃えよう。独立して、お酒の飲める定食屋を開こうというのは自然な流れでした」

 元ミシン屋のこの物件を案内した地元の不動産屋に助言された。

「古いビルですし、お金をかけずに短期で回収できるような業態にしてみては」

 だが、初めての自分たちの店だ。限られた予算ではあるが、舞台美術をしている友人に内装を依頼し、昭和の学校の教室のような雰囲気にした。メニューは黒板に。テーブルは理科の実験室のような素朴な作りで。器は好きで骨董市で買い集めていたものを使い、昔からそこにあるかのような懐かしい店ができ上がった。

 バイトも含め全員女性にしたのは、なごめる雰囲気にしたかったからだ。

 もうひとつ、不動産屋からの助言がある。

「この辺で商売をするなら必ず近隣に挨拶をして、ご近所付き合いをちゃんとしたほうがいいです。皆さんきっと、助けてくださいますから」

商売を超えた職業

 その言葉を守り、近隣30軒に挨拶をし、米も野菜も近所の業者から買うようにした。

「お米の配達屋さんから『先週このあたりの店一斉に空き巣にやられたから注意しな』と教えてもらったり。長年営んできた駅前の八百屋のおばさんから『店閉めるから、これひきとってくれない?』と、ぬか床を譲り受けたり。食材の業者を紹介してもらったり。女ふたりで経営していますから、本当に心強い。今も近所に見守ってもらっているという実感が強くあります」

八百屋さんから分けてもらったぬか床。このぬか漬けがピカイチ!

 おいしい定食屋を見分ける私の掟に「漬物は自家製」がある。山角のそれは絶妙の漬かり具合と歯ごたえなのだが、そうか。あの名物八百屋のぬか床であったか。

 年中無休。バイトは9人。自分の食事をする隙がなく、しゃがんで納豆ご飯をかきこむこともあるとこっそり教えてくれた。

 とくに定食は体力勝負だ。居酒屋はゆっくり一品ずつ出せばいいが、定食はできるだけ早く、グループ客は同じタイミングで全品出さなければならない。

 そう、たしかに山角は早い。なのに冷凍ものがひとつもない。千切りキャベツはシャッキシャキの山盛りで、いつもフレッシュ。この状態を維持するのは容易ではないだろうが、頑張れる理由はなんだろう。

「満席でお断りすると、じゃあ明日のランチに来ようというお客さんもいます。そう思うと、休めないんですよね」

 安いからたくさん回転させねばならない。「定食屋は好きじゃないとやってられない。商売を超えてます」と、平井さんは笑う。

「でも私の愛想がなくても(笑)、料理が遅くなっても、うちのお客さんって誰もクレーム言わないんです。そして、ひとりでもカップルでも、次のお客さんが来るとなんとか席を詰めて座れるようにしてくださる。だからといって私が親しくお話するわけではありませんが、頑張れるのは、そういうお客さんがいてくださることと、やっぱり自分の店だからではないでしょうか」

 前職のときは、腰痛と不眠に悩んだ。残業が長く、気づいたら顔面神経痛になっていたこともある。

 山角だって、店に立つ時間はそのときより長いかもしれない。経営者としての責任も、比ではないだろう。だが、平井さんは晴れやかな表情でつぶやく。

「いまは自転車で帰宅したら、お風呂に入って飲んで、パタって寝ちゃう。ほんと、ストレスがまったくないんです」

 夢は「継続」と地味な答えが返ってきた。うーん、もうひと声。では、近い夢はなんですか?

「コンロをひとつ増やしたいんです。スペースがないのでできないのですが。今は三つを回してるので、時間のかかる煮込みやカレーができない。もうひとつ増えたら煮込みハンバーグも作りたいな」

 下北沢という地に必要な唯一無二の存在。山角は、街の装置として機能している。だから継続という彼女の夢は、きっとこの先も叶うだろう。

 35歳で選択した新しい道。私は思う。定食屋とは、古くて新しい生き方である。

(撮影/難波雄史)

「山角」
東京都世田谷区北沢2-8-12
電話:03-6407-9032

台所の数だけ、人生がある。お勝手から見えてきた、50人の食と日常をめぐる物語。

東京の台所

大平 一枝
平凡社
2015-03-20

この連載について

そこに定食屋があるかぎり。

大平一枝

絶滅危惧種ともいわれながら、今もなおも人々の心と胃袋をつかみ、満たしてくれる「定食屋」。安価でボリュームがあり、おいしく栄養があって…。そこに定食屋があるかぎり、人は店を目指し、ご飯をほおばる。家庭の味とは一線を画したクオリティーに、...もっと読む

関連記事

関連キーワード

コメント

isoda_office https://t.co/LWez3ZeDbi 約19時間前 replyretweetfavorite

yoshinon そうそう、そういう肩の力が抜けた定食屋さん良いよね! 9日前 replyretweetfavorite

chiruko_t うまそう。  9日前 replyretweetfavorite

kusayome |大平一枝 @kazueoodaira |そこに定食屋があるかぎり。 お腹空いた🤤 https://t.co/7EtnJornAW 9日前 replyretweetfavorite