一故人

相澤秀禎、ジュリオ・アンドレオッティ—2013年5月の物故者

かたや森田健作、松田聖子、岡田有希子、桜田淳子、酒井法子などなど……多くのスターを育て、芸能界を長く盛り立てた男。かたやイタリアの政界に長く君臨し、「魔王」の異名を轟かせた男。今回の「一故人」は、先月逝去した、国も分野も異なる二人――相澤秀禎とジュリオ・アンドレオッティを取り上げています。

「手焼きの煎餅」のようにタレントを育てる—相澤秀禎(2013年5月23日没、83歳)

大手芸能事務所のサンミュージックから、2013年1月、“さんみゅ~”というアイドルグループがデビューした。そのデビューシングル「くちびるNetwork」はもともと、サンミュージック所属のアイドル歌手で1986年に亡くなった岡田有希子の最後のシングル曲であり、作詞も同事務所出身の松田聖子が手がけている(Seiko名義。作曲は坂本龍一)。

意外というべきか、さんみゅ~はサンミュージックが初めて手がけるアイドルグループだという。ほかの大手芸能事務所が、この手のアイドルグループをあいついで送り出しているなかにあって、出遅れた感すらある。

サンミュージックから長らくアイドルグループが輩出されなかったのは、同事務所の創業者で、先頃亡くなった相澤秀禎(ひでよし)の意向が強く働いていたためではないか。相澤は1980年代半ば、フジテレビの番組から生まれたアイドルグループ・おニャン子クラブが大人気となっていた頃、《最初はだれもが素人だし、おニャン子のなかにも本物のスター性を持った子はいるが》と前置きしつつ、次のように話していた。

《タダで見られるテレビだからこそできるスターづくりの方法ですね。しかし、無責任ですよ。出演するほうにもタレントの自覚はないし、見る側もたくさんいるおニャン子のうち、だれか一人が消えてしまおうとどうなろうと関心ない。それに、タレントとしての目標も自覚も才能もない子が、なんの努力もなしにアイドルになってしまうのは本人のためになるかどうか》(『週刊朝日』1986年12月26日号)

年間数千人におよぶ芸能志望者から選んだわずかな数の新人を、多額の費用を出して養成しデビューさせるというやり方を貫いてきた相澤だからこその苦言だろう。

彼はまた、デビュー前後の新人を自宅に住まわせ、早朝から一緒にマラソンをしたり、食事をともにしたりということも長らく続けてきた。サンミュージックのタレント第1号である森田健作(現・千葉県知事)に始まり、前出の松田聖子や岡田有希子も新人時代に相澤夫妻と同じ屋根の下で暮らした。そこにはこんな意図があったという。

《芸術家、落語家の内弟子に似ていなくもない生活だが、私自身はもちろん、彼ら彼女らの師匠ではない。あえていえば、親代わりである。(中略)
 このように長く一緒にいると、相手の好き嫌いや、性格などものみ込めてくる。この、性格というものは、指紋と同じで、人によって必ずどこか違っているものだ。同居していたことで、そうしたことをよく知ることができた。また、礼儀作法や言葉づかいも、足りないところがあれば教えることができた》
『人気づくりの法則』

新人と1対1で向き合いながら育てていくという方法を、相澤は「手焼きの煎餅」とたとえたりしているが(『週刊文春』1990年4月12日号)、たしかに煎餅を一枚いちまい丁寧に焼いていくのとよく似ている。そんな彼にとって、少女たちをパッケージングして売り出すような発想は端からなかったに違いない。

相澤の芸能人生の原点は、終戦直後の学生時代、生まれ育った神奈川県横須賀市でバンドを結成し、米軍キャンプなどをまわっていた頃にさかのぼる。1950年代後半には上京し、そこで無名のロカビリー歌手だった山下敬二郎を自分のバンドにボーカルとして引き入れた。山下はあっという間にスターとなり、ロカビリーブームを巻き起こす。おかげで相澤のバンドも絶頂をきわめたものの、1年ほどで山下が渡辺プロダクションに移籍、ほかのメンバーも全員脱退してしまう。

これを機に相澤は、マネージャーに専念し「第二の山下敬二郎」を探そうと決意する。東洋芸能をふりだしに、ビクター芸能で非常勤社員としてマネージャー業を務める一方で、1961年には奄美プロという芸能事務所を設立、自らスカウトした松島アキラ、そして西郷輝彦をデビューさせる。奄美プロは2年ほどで解散、西郷とともに、彼の父親が設立したプロダクションに移ったものの、すでにスターとなった彼のマネージャーをしているだけでは飽き足らなかった。それからまもなくして、新たな才能を見つけ育てるため新会社サンミュージックを設立するにいたる。1968年のことだ。

ところで、相澤の著書やインタビューなどを読むと「運」や「ツキ」という言葉が頻繁に出てくる。西郷輝彦のマネージャーをしていた頃から、地方に向かうさい新幹線に乗り遅れそうになっても、運よく発車が遅れていて仕事に穴を開けずに済んだとか、またロケでも、明日晴れないともう撮影ができないという土壇場になって、天気がよくなることも何度となくあったという。テレビ番組『スター誕生』の第4回決戦大会(1972年9月)で優勝し、番組史上最大の25社の事務所・レコード会社による争奪戦となった桜田淳子をみごと勝ち取ったのも、相澤の運のよさといえるだろう。

趣味のゴルフでも生涯に5度、ホールインワンを決めている。1993年の4度目のホールインワンのあとに書かれたコラムからは、彼の「運」に対する考え方がうかがえて面白い。それまで《こんなに続けてホールインワンが出るなんて、きっと神様が俺に運を使い切らせようとしているのに違いない》というふうに思っていた相澤だが、4度目にいたって《ツイているやつには、さらに、どんどんツキがやってくる。ツキは有限ではなく、ツイているだけ楽しむべきものなんじゃないか》と考え方を改めたというのだ(『文藝春秋』1994年6月号)。

とはいえ、相澤には不運といえるできごとも少なくない。1980年代半ばには、かつて相澤が熱望してサンミュージックに移籍させた都はるみの引退(のち1990年に復帰)、松田聖子の出産による一時休業(1989年にはアメリカ進出をめざして独立)、そして彼が亡くなるまで悔やみ続けた岡田有希子の自殺と、同事務所の看板タレントがあいついでいなくなった。その後も、統一教会に入信した桜田淳子が、芸能界からフェイドアウトしたり(1992年)、さらに酒井法子が覚醒剤使用により逮捕され有罪判決が下されたりと(2009年)、手塩にかけて育てたタレントたちをめぐる騒動に巻きこまれた。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou ケイクス連載「一故人」最新回、いまから1時間ほど無料でお読みいただけます。よろしくお願いします。 4年以上前 replyretweetfavorite

donkou ケイクスの連載https://t.co/EWcJkFlBHfでアンドレオッティについて調べていたところ、戦後イタリアの政治家について伝記など日本語で読める資料がほとんどなくて途方に暮れました。アンドレオッティは恩人であるデ・ガスペリの評伝も書いているのですが、これまた邦訳は未刊。 4年以上前 replyretweetfavorite

donkou 拙連載、更新されております。サンミュージックの 4年以上前 replyretweetfavorite