午後になった。
海は相変わらず荒れており、とても問い船(捜索船)を出せるような状況にない。
気づくと五左衛門はおらず、日の出から船着場で沖を眺めていた面々も一人減り二人減り、残っているのは、いずれかの船に乗っている者の家族や縁者ばかりになっていた。
——今日のところは、消息が摑めないかもしれない。
嘉右衛門がいったん仕事場に戻ろうとした時、視線の端に何かが捉えられた。
——あれは船か。
ほかの者もそれを認めたらしく、「帰ってきたんと違うか」と言っては沖を指差している。
やがて船影らしきものが、はっきりと見えてきた。
船着場周辺は大騒ぎとなり、それぞれの仕事場に戻っていた者たちも再び駆け付けてきた。
「おとっつぁん、船が戻ってきたか!」
弥八郎が獣のような速さで駆けてくる。
「ああ、そのようだ」
「一隻か」
「見ての通りだ」
やがて船影がはっきりしてきた。
「あれは早瀬丸だ!」
戻ってきたのは、四隻の船団の一角を成す早瀬丸だった。
早瀬丸は湾の中央辺りまで来ると、垂らしを下ろした。
常の港の場合、波止(桟橋)に接岸せずに湾内に停泊して荷の積み降ろしを行うが、牛島の里浦は水深が深いため、波止の端に接岸できるようになっている。それでも接岸できるのは中型船までで、大型船は停泊せねばならない。
「よし、小船を出せ!」
いつの間にか戻っていた五左衛門が奉公人たちに指示を出すと、すぐに丸尾屋の半纏を着た者たちが瀬取船を漕ぎ出していく。だが風波が激しく、なかなか早瀬丸に近づけない。
じりじりしながら見ていると、ようやく一艘が接舷に成功した。
早瀬丸から縄梯子が下ろされると、それを伝って何人かが瀬取船に乗り移った。小船は木の葉のように波間を漂いながら、浜に戻ってくる。
やがて濡れ鼠のようになった三人の男が浜に降り立ち、五左衛門の前に拝跪した。
「精兵衛、よう戻った」
髷が解けて顔に掛かっていたので、はっきりとは分からないが、そのうちの一人は早瀬丸の船頭の精兵衛のようだ。
「あんた!」
その時、背後から精兵衛の女房が飛び出した。だが、何を措いても棟梁への報告を優先するのが塩飽の掟である。精兵衛の女房は、たちまちほかの女たちに取り押さえられた。
「早瀬丸沖船頭、精兵衛、戻りました」
精兵衛が両手をついて頭を下げる。
「この荒れ方じゃ、すぐに問い船を出すことはできねえ。まずは様子を聞かせてくれ」
五左衛門は漁師小屋に三人を導くと、網の山の上に腰を下ろした。三人は土間に正座する。
五左衛門が合図すると、煙管が渡された。
「まずは一服しろ」
「ありがとうございます」と言ってそれを受け取ると、精兵衛らは順に一服した。
「それでは聞かせてくれ」
「へい」と答えて精兵衛が状況を語り始めた。
船団が六島の南を航行していると、突然、南西から張り出した黒雲が空を覆い始めた。事前の風雨考法(天候予測)では、「海は荒れるが、たいしたことにはならない」ということだったので、そのまま航行していると、暴風圏に入ってしまった。
それでも船が覆るほどではないので、そのまま暴風圏を突破しようとした。だがその時、清風丸の様子がおかしいことに気づいた。
清風丸は何らかの故障を抱えたらしく、船首の方向が定まらない。そのため横波に打たれては大きく傾き、かろうじて復原することを繰り返すようになった。
——きっと舵か外艫だ。
その動きからすると、舵そのものか舵を収めている外艫と呼ばれる構造物が、何らかの問題を抱えたと察せられる。
「その後、清風丸は帆を下ろし、垂らしを投げ入れて『つかし』に入りました。わいらは清風丸を曳航できないものかと取り巻いていたんですが、海が荒れていて無理なことは明らかでした。すると清風丸の方から『先に行け』という合図が出されました」
塩飽の船手衆の場合、船団間の意思疎通の手段として合図旗を用いる。
「それで、お前らはどうした」
「六島には蔵がないので、その北の真鍋島まで難を逃れ、そこでほかの二隻は船掛かりしました。そこで三隻の船頭が談合し、早瀬丸だけが荷を降ろし、少し風が収まるのを待ってから、清風丸を探しに戻ることにしました。しかし——」
精兵衛が言葉に詰まる。
「しっかりせい」
「は、はい」と言いつつ、精兵衛が姿勢を正す。
「いいか、ここには清風丸の船子の身内もいる。皆が知りたいのは乗っているもんたちの安否だ。包み隠さず話してくれ」
「分かりました」
精兵衛が勇を鼓すように声を振り絞る。
「清風丸は小さな岩に突っ掛かっていました」
「突っ掛かるとはどういうことだ。土性骨入れて言え!」
「はっ、はい。清風丸は座礁していました!」
女たちの悲鳴が聞こえ、間髪容れず泣き声が続く。
「噓だ!」と一人の女が喚く。
「うちの父ちゃんの船が覆るはずがねえ!」
戸口付近にいた女が駆け寄ろうとしたが、すぐに女房たちに取り押さえられた。
続いて、髪を振り乱した老婆が精兵衛を指差す。
「うちの粂八は毎朝、池神社の掃除をしとる。お前らが誰もせんから、粂八だけがやっとった。そんな粂八を海が持っていくわけねえ!」
なおも迫ろうとしたので、老婆は背後から抱きとめられた。
池神社とは、牛島の氏神を祀っている神社のことだ。
「ほかに何か見えたか」
「いえ、清風丸の木片のほかには何も——」
精兵衛が震えた声で言う。
船が原形をとどめていないとなると、乗り組んでいた者たちが無事のはずはない。
嘉右衛門の胸底から、絶望感がわき上がってきた。
「船はどんくらい、形をとどめていた」
煙管を持つ五左衛門の手が小刻みに震える。五左衛門も動揺しているのだ。
「正直申し上げて、形を成していませんでした」
再び悲鳴と嗚咽が聞こえる。
「つまり、誰も見つけられなかったんだな」
「わいらは懸命に周囲を走り回り、一人でも浮いていないか探したんですが——」
「見つからなかったんだな」
「浮いているのは積み荷ばかりで——」
その時の無念を思い出したのか、精兵衛が膝を叩く。
「分かった」と言うと、五左衛門は小屋の外に出た。皆がそれに続く。
煙管を従者に渡すと、五左衛門は外に控える早瀬丸乗り組みの者たちに言った。
「皆、苦労を掛けた。まずは身内の許に行ってやれ。真鍋島の蔵に置いてきた積み荷は、風波が収まってから取りに行け。それから真鍋島で待つ二隻と共に目的地に向かえ。捜索は風波が収まってから、わいが陣頭に立って行う」
「へい」と、早瀬丸乗り組みの面々が声を合わせる。
「あんた!」
「よかったなあ」
早瀬丸の船子たちに家族が駆け寄る。それに対して清風丸に乗り組んでいた船子の家族は、その場に身を寄せ合って泣き崩れている。
海の仕事に明暗は付き物だ。しかし、こうした場に幾度となく遭遇してきた嘉右衛門でも、これほどの明暗には出遭ったことがない。しかも今回は、幼い頃から共に育った弟の市蔵が帰らぬ人となったのだ。
——お前がいなくなるなんて、わいにはぴんと来ねえ。
悲しみはいっこうに訪れず、嘉右衛門は夢とも現ともつかない奇妙な感覚の中にいた。
その時、「嘉右衛門」と五左衛門の呼び掛ける声が聞こえた。
「やはり舵か外艫か」
「話を聞く限りは、そうなります。しかし舵が破損しただけなら、『つかし』はしねえと——」
「つまり、うねりの力に外艫が耐えられなかったってわけか」
五左衛門が独白のように呟く。
「定かではありませんが、そう考えるべきかと」
漁師小屋から外に出た嘉右衛門は、無数の白波が暴れる沖を見つめた。
——市蔵よ、外艫だろう。舵の羽板が砕けたのか。それとも身木(舵軸)の「尻掛け(留め綱)」が外れたのか。
少なくとも、舵が用をなさなくなったことだけは間違いない。
——市蔵、だから言わないこっちゃねえんだ。
嘉右衛門は、二年半ほど前の作事場でのやり取りを思い出していた。
「大坂に行く度に、船の数が増えとる」
ほぞ穴をうがつ嘉右衛門の背後で、市蔵の声がした。
市蔵は、所用で大坂に行ってきたばかりだった。
「そんなに増えてんのか」
弥八郎である。市蔵は嘉右衛門に話し掛けたのではなく、弥八郎と立ち話をしているようだ。
「ああ、増えとる。大坂湾に沖掛かりしているものだけで立錐の余地もない。これからは、もっと増えるだろう」
「てことは、どうなる」
「商いが厳しくなるだろう。買積だったらまだいいが、賃積(請負)だと運び賃を叩かれる」
買積とは自ら商品を仕入れて自らの判断で売買することで、賃積とは荷主から指定された場所に荷を運び運賃を得ることだ。むろん買積の方がもうかるため、丸尾屋は自前の船を使った買積を多くしようとしていた。
「商いとは難しいもんだな」
「商いは競い合いが基本だ。うま味のある商いには、すぐに競い手が現れる。そいつらと叩き合いをして、次第にもうけが薄くなっていくんだ」
「それで、もうからなくなったらどうする」
「高く売れるもんを扱うしかねえ。だが考えることは誰も同じだ。そうなれば、一隻当たりの散用(費用)を低く抑えるしかない」
「しかし、それが難しいんだろう」
船主なら誰でも一隻当たりの費用を抑えようとする。だが給金などの費用を抑えようとすれば、それだけ船子の質が落ち、遅延や遭難の危険性が高まる。
「散用は抑えられねえ。そうなれば道は一つだ」
「何だい」
「大きい船を造ることさ」
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