食事は、サラダだけが来て、なかなかあとが続かず、ほど経てスペアリブが来たが、肝心のお子様ランチが出てこなかった。颯太にスペアリブを食べさせようとしたが、「からい。」と言って、一口で、突き刺した肉をフォークごと皿に戻してしまった。
「ねえ、ママ、スマホのゲームであそびたい。」
香織は、仕方ないという風に、颯太の好きなパズルゲームの画面にして手渡した。
肉を食べながら、二杯目のシメイをもうほとんど飲んでしまった城戸は、少し酔って、ますます気分が良くなった。
「ごめん、ちょっといい?」
香織は、席を立ちながら、携帯をどうしようか迷っている風だったが、そのまま颯太に預けていった。
城戸は、「おそいね、おこさまランチ。」と颯太に声を掛けながら、一昨年の冬、渋谷で谷口恭一に初めて会った日の夜のことを思い出した。あの時、子供部屋で颯太を寝かしつけながら感じた強烈な幸福感のことを考え、今も自分は幸福なのだと胸の内で呟いた。
『──どこかに、俺ならもっとうまく生きることの出来る、今にも手放されそうになっている人生があるだろうか?……もし今、この俺の人生を誰かに譲り渡したとするなら、その男は、俺よりもうまくこの続きを生きていくだろうか? 原誠が、恐らくは谷口大祐本人よりも美しい未来を生きたように。……』
そして、原誠の夢であった「普通」であるということの意味を改めて考えた。その観念が、どれほど多くの安堵と苦しみを、人に与えてきたかを。
城戸は、下を向いて、小さな人差し指で器用にタッチパネルを操作する颯太を見つめた。自分の子供の頃に、顔も性格もよく似ていると思った。一体、子供が親に似ているというのは、自然淘汰の考え方からすると、有利なことだったのだろうか? 似ていればこそ、親はまるで自分自身のように子供を大事に育てるのか?
彼はたちまち、養子をかわいがる両親など、その反証を無数に思いついて、自分の当て推量を取り下げた。颯太が自分に似ていることに強い喜びを感じていることは事実だったが、息子にとっては、将来、苦悩の原因にならぬとも限らなかった。
自分は、真っ当に生きなければならないと城戸は思った。そして、この子を譲り渡すという決断を想像して、胸が張り裂けそうになった。
『俺は、それをきっと身悶えして後悔する。谷口大祐のように。──しかし、原誠ではなく、別の誰かだったなら、谷口大祐の続きの人生も、あれほどの幸福には恵まれなかっただろう。……』
彼はグラスの底に残った、もう気の抜けてしまったビールを飲んで、唇を噛み締めた。そして、今のこの人生への愛着を無性に強くした。彼は、自分が原誠として生まれていたとして、この人生を城戸章良という男から譲り受けていたとしたなら、どれほど感動しただろうかと想像した。そんな風に、一瞬毎に赤の他人として、この人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら。……
「ねえ、おとうさん、まあーだー?」
「おそいなあ。もういっぺん、いってやろう。」
城戸はせわしなく空いたグラスを運んでゆくウェイトレスを呼び止めて、もう一度、急ぐように言った。
そして、ふと、そう言えば、あの時に颯太から尋ねられた、ナルキッソスはどうして水仙の花になってしまったのか、という質問に、結局、まだ答えていなかったことに気がついた。颯太自身も忘れているが、折角だから、今度調べてやろうと携帯にメモをした。
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