ある男

ある男(41)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 谷口大祐に会い、原誠との戸籍交換について話を聴いた後、城戸は、中断していた、里枝に渡すための報告書を書き上げた。原誠については、まだ知りたいこともあったが、一年三ヶ月に亘ったこの調査を、ともかくも一旦、終わらせる必要を感じていた。

 城戸は、香織に言われた通りに、職場近くのクリニックで、臨床心理士のカウンセリングを受けたが、質問の仕方に職業的な関心が向いてしまい、根掘り葉掘り尋ねて会話は盛り上がった。またいつでも、と言われたものの、結局、足を運んだのはその一回きりだった。

 香織は、それを聞いて安堵したが、いざ自分となると腰が重かった。それでも、城戸が約束を無理強いしなかったのは、あの日の話し合い以来、彼女の態度に変化があり、颯太が叱られて泣く機会も目に見えて減っていたからだった。

 必ずしも、自然に、というわけではなく、城戸はむしろ、妻の方にも家庭を立て直そうとする意思と努力を感じた。震災だけでなく、排外主義の拡がりに、彼女の立場で感じている精神的負担を改めて共有したあとだけに、彼も出来るだけ、協調的でありたかった。気遣いの至らなかったことにはすまないという気持ちがあり、また、感謝もしていた。

 城戸のその思いは、今に至るまで揺らぐことはない。

 従って、里枝との再会の三日前に起きた次のような出来事は、とある平凡な週末の取るにも足らない記憶として、彼の中では既になかったことになっているのである。

 その心境が、理解できないという人もいれば、わかる気がするという人も恐らくはいるであろうが。


 城戸の家族は、朝から颯太がずっと行きたがっていたスカイツリーを訪れていた。

 東横線と半蔵門線を乗り継ぎ、十一時頃に到着したが、二年前の開業時の混雑も、そろそろ解消されているのではという呑気なアテは外れ、取り分け、春休みの週末だけに、整理券の配布だけでも二時間待ちと告げられた。

 窓の外には、快晴のめざましいほどに青い空が広がっていた。

 いい休日だなと、城戸はそれを見つめながら思った。

 昔、何かの小説で読んだ「ああかかる日のかかるひととき」という嘆声が脳裡を過った。まさにそんな気分だったが、誰の本だったかは、どうしても思い出せなかった。

 香織は昨夜は会社の飲み会で、城戸も寝てしまったあとの深夜に戻ってきたが、その割に二日酔いもなく、起きてからずっと機嫌が良かった。

「どうする? ならぶ?」

 母親に笑顔で尋ねられた颯太は、親指の爪を噛んでその目を見ると、しばらく迷う風にクネクネしていたあとで、「やっぱり、すいぞっかんにいく。」と言った。

 城戸は本当にそれでいいのかと確認したが、

「いいから、いこー。」

 と腕を引っ張られた。大人の顔色をよく見るようになったが、それが年齢相応なのか、過敏なのかは城戸にはわからなかった。スカイツリーは、真下から見上げただけで満足することにした。

 城戸は香織に、遠くから見てもありがたみのない鉄塔だが、間近で見てもふしぎなほど感動しないと、思った通りのことを言った。香織も、「ほんとね。」と同意して笑った。颯太が途中で、ガチャガチャを一回どうしてもしたいというので、城戸が小銭を出してやった。鎧兜のミニチュアだった。

 水族館は、同じ建物に入っていて、こちらも混んではいたが、行列は短かった。三人で、八景島のシーパラダイスには行ったことがあるが、ここは、城戸も香織も初めてだった。

 中は、今風の薄暗いデート向けの照明で、颯太は小躍りして人混みを歩いたが、クラゲや小魚などには見向きもせず、少し高い水槽のラッコを見せてやろうと抱きかかえても、「もういい。」と素っ気なかった。サメやエイが見られる水槽は、最近、シネコンでよく見る巨大スクリーンのように壮観で、ここが見所だとひとだかりが出来ていたが、颯太は今度は、「こわい。」と言って足早に通り過ぎた。城戸は、香織と顔を見合わせて苦笑した。

 ペンギンのゾーンは、大きなプールを上から見下ろす作りになっていて、颯太はその構造に興奮したようだった。青い水槽には人工の岩場が設けられており、下の階に降りると、目の高さで水中を泳ぐペンギンを見ることが出来る。

 群れをなして泳ぐその影が床に落ちて、それらだけを見ていると、飛翔しているようだった。水槽の外から見上げる水面は、絶え間なく攪拌されていて、天井から注ぐ光を揉みしだいている。皆が同じ方向を向いて泳いでいるのに、ほんの数羽が深く、斜めに反対方向へと突き進んでゆくと、やがて群れ全体が方向を転じる様を、城戸は面白く眺めた。

 そして、気がつけば、颯太と香織の姿はなくなっていた。

 二人を見失った城戸は、しばらくペンギンのゾーンをうろうろしていたが、見つけられなかった。携帯で連絡すると、もう出口付近のグッズ売り場にいるという。なんだ、と行ってみると、颯太は「おとうさん、まいご!」と、姿を見るなりおかしくて堪らないという風に飛び跳ねて笑った。城戸が顔を顰めてみせると、いよいよ止まらなくなった。記念に何か買ってやるつもりだったが、散々物色した挙句、欲しいものがなかったらしく、昼食後に他の店で探してみることになった。

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文藝春秋
2018-09-28

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