ある男

ある男(39)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

「曾根崎義彦」との待ち合わせは一時だったので、城戸と美涼は、駅ビルのレストランで簡単に昼食を摂り、そこで一旦別れた。

 最初は城戸が一対一で面会し、あとから美涼が合流する段取りになっていた。場所は、名古屋駅から歩いて十分ほどの場所にある「コメダ珈琲」を指定されたが、周辺に何軒も支店があり、この辺りに不案内な城戸は、約束の時間に五分ほど遅れた。

「曾根崎義彦」が谷口大祐なら、写真で顔を知っていたが、それも十年以上前のものであり、すぐにわかるかどうか不安だった。

 店員に待ち合わせを告げると、あちらではないかと、喫煙席を促された。隣と木のついたてで仕切られた四人がけの席に、何となくちぐはぐなスカジャンを着て、グレーのニット帽を被った男が座っている。

 こちらを見ていた。城戸は、声にならない吐息を漏らした。そして、スカイプで初めてその声を聴いた時と同様に胸を高鳴らせた。歳は取っていたが、間違いなく、谷口大祐だった。

『──ちゃんと生きてる。……』

 城戸は、自分が最後まで捨てなかった原誠への信頼を思い、上気したように頬に熱を感じた。

 タバコの煙とコーヒーの入り混じった臭いが一帯に立ち籠めていた。席に辿り着くと、城戸は名刺を差し出して挨拶をした。男は、恐ろしく緊張した面持ちで無言で頭を下げ、名刺の裏表をしげしげと見ていた。

「谷口大祐さんですよね?」

 城戸が尋ねると、「曾根崎義彦」のはずの男は、一瞬、不愉快そうな顔になり、躊躇した後に「そうです。」と言った。城戸が微笑むと、反射的にぎこちなく頬を歪めた。

 年齢は、城戸よりも三つ年上の四十二歳のはずだったが、んだ肌には艶がなく、酷く疲れた目をしていた。コーヒーを注文すると、「あの、」と向こうから口を開いた。

「曾根崎で呼んでもらえます? あと、タバコ、いいですか?」

「どうぞ。すみません、曾根崎さんとお呼びします。」

 谷口大祐は、一服すると、少し落ち着いたように続けた。

「経験してない人にはわからないでしょうけど、戸籍を交換して、一年も経ったら、本当に別人になるんですよ。谷口さんって言われても、正直、アレ、俺のこと? みたいな感じで。過去も一緒に全部入れ替えてしまうから。俺も、戸籍交換するまでは、谷口家の人間のこと、憎んでましたけど、今はもう、他人事ですね。フェイスブックで谷口恭一さんを見ましたけど、田舎の温泉のイタい社長にしか見えませんでしたし。」

「昔のこと、思い出したりもされないんですか?」

「人間関係も断って、その土地から離れたら、自然と忘れていきますよ。──いや、ただ忘れようとしても、忘れられないですよ、嫌な過去がある人は。だから、他人の過去で上書きするんですよ。消せないなら、わからなくなるまで、上から書くんです。」

 コーヒーが来ると、城戸は頷きながら口をつけた。彼が考えていたような、他者の傷の物語を生きることで自分自身を生きるといった話とはまるで違っていて、そういうものだろうかと思うしかなかったが、それにしても、ここに来るまでの間、美涼から聞いていた谷口大祐の印象とは随分と異なっていた。顔だけ見ると本人に間違いないが、城戸には彼が語る通り、同一人物とは思えなかった。

「曾根崎さん……は、その、どちらの出身なんですか?」

「山口県のとある町ですよ。元々は、ヤクザの子供です。」

「……なるほど。曾根崎さんは、……何て言ったらいいのかな、その戸籍を誰と交換したかは知ってますか?」

「原誠さんでしょう?」

 谷口大祐は、意外にも当然のことのように言った。

「そうです。仲介したのは、小見浦っていう男ですか?」

「そんな名前だったかな、……フグみたいな顔した、いかにも怪しい感じの。」

「ああ、じゃあ、そうですね、多分。」

「なんか、二百歳まで生きた人間を知ってるとか、メチャクチャ言ってましたよ。」

 城戸は、思わず吹き出して、手に持ったコーヒーを零しそうになった。

「僕には三百歳って言ってましたよ。」

 谷口大祐は、ニヤッと笑って、初めて打ち解けた様子を見せた。

「あの人、今何してるんですか?」

「刑務所に入ってます。」

「本当ですか? 何やったんですか?」

「詐欺罪です。」

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

コルク

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