「ダ・ヴィンチ・コード」はなぜ間違いなのか?
「だいたい、ダ・ヴィンチ・コードは間違っているし」
「どうして?」
「知っての通り遺伝子は同じものを父親と母親から受け継ぐから、ある種の遺伝子をそれぞれから受け継ぐ確率を単純に五分五分として計算すると、十代後の子孫に自分と同じ遺伝子が受け継がれる確率はほとんどゼロになる。つまり、たとえキリストの子供が本当に存在したとしても、キリストと同じ遺伝子を受け継いでいる可能性はない」
「なるほど」
「だがY染色体は違う。男系の子孫が絶えない限り永遠に同じものが受け継がれていく」
「だったら、キリストの男の子?」
菜月が茶化すように言った。
渡辺が黙っていろと言いたげに睨んだ。
「キリストに子供がいたという話はよく話題になるがそれは女の子。だからたとえキリストがY染色体を持っていたとしてもその時点で途絶えている。だいたいキリストは神の子だからY染色体は神から貰ったことになる。実はそれが問題」
「キリストもY染色体を持っていたということ?」
「そう、キリストは男として現れているからY染色体を持っているはず。だが、マリアが処女懐胎でキリストを身ごもったということは、Y染色体は神からもらったことになる」
「そうか、考えたこともなかった」
独り言のように鈴木が口を挟んだ。
「マリアは女性だからY染色体は持っていない。キリストは男だからY染色体を持っている。だとすればそれは神から受け継いだことになる」
「そう、そしてキリストが神から受け継いだY染色体の遺伝情報が表現した神の印が掌の七つの星」
「なるほど、キリストの手に現れた七つの星はY染色体にある遺伝情報が現れたもので、それは神の遺伝子だという意味ね」
「科学的にはそういうことになる」
「だとすると、もし右の掌に七つの星を持って生まれた男の子がいたとすれば、その男の子も神の遺伝子を持って生まれたことになる」
「それが正解でしょう」
きっぱりとした声だった。
「キリストと関係があろうがなかろうが神の遺伝子に違いはない」
「水瓶座の救世主ということですか」
思い出したように鈴木が尋ねた。
「おお、判ってますねー」
渡辺は満足げだった。
「どういうこと?」
不満げな菜月に、
「それは、鈴木君に説明してもらって。僕は休憩」
と、渡辺は机からコーヒーの入った大きな紙コップを持ち上げると、背もたれに身を預けた。
「Jesus Christ(ジーザス・クライスト)は魚座の救世主で、魚座の時代が終わり水瓶座の時代に入ると新しい救世主が現れるという話です。黙示録に書かれたいろいろなことが現実性のあることとして話題になった理由も、この終末期の考え方にあります。そして、救世主が現れる代わりに悪魔が世界を支配するという可能性も囁かれました」
鈴木は説明を続けた。
12
地球は北極と南極を繫ぐ軸で自転している。
そこに太陽と月との引力が作用するとコマが首を振るようなよろけた運動を起こす。地球の軸そのものがゆっくりと円を描くように振れるのである。すりこぎのような動きなのですりこぎ運動とかみそすり運動とも呼ばれるが、正式な名称は歳差(さいさ)運動である。
地球の歳差運動は極めてゆっくりとした運動で、自転軸が一度変化するのには七十二年かかる。一周するにはその三百六十倍、二万五千九百二十年かかることになる。
地球から見た場合、自転の軸の方向とは北極星の方向のことであるから、自転軸が変わるということは北極星の位置が少しずつ変化することを意味する。同時に昼と夜との長さが一致する春分の日に太陽が昇る位置も動く。
星占いで有名な十二の星座は、天球の赤道を中心とする帯を十二に分けた十二宮のそれぞれに位置する星座だが、先人たちは春分の日に太陽が昇る宮がその時代を示すものであると信じた。一周するのに二万五千九百二十年かかる帯を十二に分けたので、それぞれの時代は二千百六十年ずつあることになる。
キリストが誕生した頃、春分点は魚座に入った。
それが今、水瓶座に移動しようとしている。
キリストが救世主として現れた魚座の時代が終わりに近づいているのである。
それはまた、キリストに守られた世界が終末期を迎えているとも捉えることができる。
次に来るのは水瓶座の時代である。
そこには新しい救世主が誕生してキリストのように世を救うのか、それとも悪魔の時代が来るのか。終末期思想は人々に不安と期待とが混ざり合った緊張感を与えた。
ヨハネの黙示録の世界は、まさにこの時代を予言したかのような記述になっている。
「キリストの時代が終わろうとしているということ?」
「そう」
「そうなんだ」
菜月は、ふーん、という顔をした。
「新しい救世主が生まれて、それをイスラム過激派が狙っている」
「狙っているとは限らない。水瓶座の時代こそが自分たちの時代で、その救世主は自分たちの救世主であると考えているのかもしれない」
「神父はその子を守ってくれと言ったのかしら」
三人はしばらく黙り込んだ。