◆アイスマン有馬の猛攻にタジタジの枝折
枝折は考える。初対面の取引先の新人に、こうした話をぶつける意図はどこにあるのか。
自分は試されている。とにかく、なにか答えなければならない。議論の一つもできない人間だと思われたら、使えない奴認定されて、今後の打ち合わせで、まともに取り合ってもらえない可能性がある。
「小説を含む文芸は、表現されたものを体験することに主眼が置かれています。
本の中には、ビジネス書や新書のように情報摂取が目的のものもあります。そうしたものは獲得方法は問われません。紙に印刷されていようが、ディスプレイ越しだろうが、経路は重要ではありません。
しかし体験とは、その入手経路自体に意味があります。
たとえば音楽をコンサートホールで聴くのと、駅の雑踏の中でイヤホンで聴くのとは異なる体験です。演劇を劇場で見るのと、スマートフォンで見るのも違います。同じ感動を味わうことはできないでしょう。
情報を得ることと体験することは違います。一見不便に見えたり、時間がかかったりすることに意味があったりします。作り手が意図した体験を届けるのが、出版社の大切な仕事の一つだと私は考えています」
頭の中で素早く理論を組み立て、有馬に返す。
「つまり、電子書籍で小説を読んでいる人は、作者が届けようとしていたものとは異なる体験をして、それにお金を払っているということですね」
有馬は攻撃の手を緩める気はないらしい。氷のような表情で言葉を続ける。
「あなた方は、紙の本よりも若干安い定価を、電子書籍につけている。私はその差額は、紙を印刷するコスト分だと思っていたのですが、もしかして目減りした体験分の減額ということなのでしょうか」
これは罠だ。枝折は、自分が追い詰められていることを自覚する。
印刷コスト分の差額だと答えれば、劣化した体験を同じ値段で売っているのはおかしいと言われる。体験分の減額だと答えれば、さきほど有馬が問題にした単行本と文庫本の価格差に話が戻る。電子書籍は体験分の正しい値段、つまり文庫の価格に合わせるべきだと指摘される。
「仕事の話をしましょう」
これ以上の議論を防ぐために、枝折は話を終えようとする。
「そうですか」
有馬は、前のめりになっていた体を起こして、背もたれに体を預けた。
「初めての若い人だから、改善を期待して意見をぶつけたのですが……」
残念そうに有馬は呟く。あまりにも肩を落とした様子に「どういうことですか」と声をかけた。
「御社では今までいなかった二十代の方でしたからね。これまで、四十歳以上の方ばかりでしたから。岩田さんが常々話していた電子主導の出版を、若い人と築いていけたらと考えたのですが」
有馬は口を結び、わずかな時間下を向いたあと、気持ちを切り替えるように顔を上げた。
「春日さん。岩田さん宛に私が送ったリストは、その後どうなりましたか」
慌てて紙の束を繰ってBNBと共有しているデータを確認する。
バーンネット会員向け、オリジナル電子書籍企画。
有馬が属するバーンネットの中心事業は個人間通販だ。またそれだけでなく、ブログやチャットなど、多くのサービスを展開している。彼らは大量の個人情報を持っており、電子書店のBNBの情報と掛け合わせることで、どのような本が今後売れそうか分析している。
電子書店から出版社への商品提案。バーンネットの顧客に刺さりそうな電子書籍の執筆依頼。
リストには有名な作家は並んでいない。そうした作家の作品を、独占配信することは難しいし、コスト面でも厳しい。それに、書店から提案した内容の小説を、そのまま書いてくれるとは思えない。
データが弾き出した、無名ではあるが読者がのめり込みそうな作家。彼らに、データ分析で得られたテーマで小説を書いてもらう。その作品を、一定期間BNBで独占配信する。
BNBには、編集や校閲といった人材はいない。だから、それらを担ってくれるところと組みたい。
差別化。電子書店も生き残りに必死だ。特に新興のところは、特色を出していかなければ、顧客を増やすことはできない。
リストには、枝折が会ったことのある人物もいた。漣野久遠。枝折と同い年の準引きこもりの作家だ。
「なにか、気になる人でもいましたか」
有馬は事務的な口調で尋ねてくる。
「ええ、打ち合わせをしたことがある作家さんの名前がありましたので」
漣野の名前を口に出す。
「若いネット中毒者と特に相性のよい作家です。彼が使う単語には、ネットの今が反映されています。バーンネットのユーザーが、メッセージ機能や日記機能で使用している単語との一致率が、最も高い作家です」
有馬はこれまでとは違い、楽しそうな声を出す。
どうやら彼は漣野を買っているらしい。しかし、それはデータの上だけではないかという疑問が湧いてくる。
「有馬さんは、漣野さんの小説を読んだことはあるんですか」
枝折の質問に、有馬はきょとんとした顔をする。
「読むとは、どういうことですか」
「ですから、小説として楽しんだかということです」
「形態素解析器を使って、単語構成を調べたり分析したりはしました。それを読んだと言えば、読んだと言えるでしょう」
宇宙人と相対している気分になった。自分とはまったく異質な方法で小説に触れる人間がいることにめまいがした。
「有馬さんは、小説を読んだことはあるのですか」
「ありますよ。教科書で読みました」
「普段は、なにを読んでいるのですか」
「技術書やプログラムのソースコードですね。美しいソースコードを前にしたら、お酒を何杯でも飲めますよ」
恍惚の表情を浮かべながら有馬は言う。
冷戦時代のアメリカ合衆国とソビエト連邦。服部の台詞が飲み込めた。異文化コミュニケーションどころではない。異世界コミュニケーションとでも言うべきレベルだ。
「ビジネスの話をしましょう」
枝折は敗北感とともに言った。
「そうですね。そのために来ているのですから」
有馬は失意を交えた口調で告げる。
「読者が読みたい話と、作者が書いた本とをマッチングするのが私の仕事ですから」
それが一番大切なことなんだと主張するように有馬は言った。
「おほほほ。さあ、来月の販売計画を練りましょう」
これまで気配を消していた服部が、急に割り込んできた。二人を会わせる儀式は終わったということだろう。枝折は商品の販促に繫がる情報を、有馬に伝えていった。
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