私は今まで勝負の世界に身を置いて、人生を歩んできました。
相手に勝つ、自分に克つ、ということを一局ごとにくり返すうちに、一歩ずつ前に進み、強くなっていくような実感をもっていました。
ただ、棋士としての人生は、成功ばかりではありませんでした。たくさん戦った分、負けも多く経験しています。何事にも確信がもてない、一寸先は闇という不安にさいなまれたこともあります。
そんなとき、キリスト教の洗礼を受けました。
勝ちにこだわり、将棋盤の上ではいつも攻めの姿勢を崩さない。そんな私が、人間的な弱さを認めて、自分以外の大きな存在に身を委ねた瞬間でした。
リスクの高い手こそ最善の手
私が将棋を指すときはいつも「よりよい手」を考えることに、時間を費やしてきました。過去には、一手に7時間考えたこともあります。
もちろん、「よりよい手」をくり出すにはリスクもつきまといます。
ときにはこわくなってしまうこともあるでしょう。
けれども、「リスクが高い手」ほど「最善の手」であることが多いのです。
私は常にギリギリのところで、リスクを取り続けてきました。自暴自棄になったり、目標を下方修正したり、守りに入ったりすることを避けてきたつもりです。
しかしあるとき、自分の一手が本当によい手なのか、まったくわからなくなってしまったことがあります。
「この手でいいのかな」という自信のなさが一手一手ににじんでいたのでしょう。気づけば、私はまったく勝てなくなっていました。将棋が中心の私の生活もまた、不安に押しつぶされてしまいそうでした。
そんなとき、人生における「たしかなもの」の存在を、実感させてくれたのがキリスト教でした。私は、自分が幸せに生きるための確実な答えがこの世には存在すると、悟ることができたのです。
人生とは、すなわち将棋である
もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、「人生を歩むこと」と「将棋を指すこと」とはよく似ています。
人生が、神様という「たしかなもの」に守られ、組み立てられていることを知った私は、将棋で迷いが生じることもなくなりました。最善だと思う手を、着実に積み重ねていけるようになったのです。
その確信に満ちた自分の将棋の足跡は、棋譜(対局者が指した「手」を順番に記入した記録)に表れています。
「名局(歴史に残るような対局のこと)」と称された将棋は、どの手にも無駄が一切なく、合理的。棋譜を見れば、その対局の流れが「芸術の域に達している」といっても過言ではありません。
偉大な作曲家たち、たとえばヨーロッパが誇る〝音楽の父〞バッハ、〝楽聖〞ベートーヴェン、〝神童〞モーツァルト……。彼らが残してくれたクラシックの名曲の楽譜と同様に、私の残した棋譜にも芸術的な美しさが宿っていてほしい。
なぜなら、私が神様の力を借りながら、一手一手、ただひたすらによい手を追い求めてきた証しだからです。「人生」も、一手一手の積み重ね。毎日あなたは人生の棋譜を記しているのです。
どんなにありふれた人生でも、限りない選択肢が用意されています。ときには悩み、苦しみ、答えが見つからないと弱音を吐きたくなることもあるでしょう。
それでも、私は断言します。
あなたの人生を幸せにする一手は、どんなときにも存在するのです。
これから一緒に、幸福の至るための「最善の一手」を探っていきませんか。きっと、あなたにしか書けない、人生の棋譜に気づくことができるはずです。