村上春樹の読み方『羊をめぐる冒険』後編

前編、中編をかけて、第一、二章に描かれたものを明らかにしてきた『羊をめぐる冒険』評。後編は作品の主要部分になる第三章以降について。『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』で持ち越されたテーマに、村上春樹はどのような解決方法を示したのでしょうか。未読の方は、ぜひ『風の歌を聴け』評からお読みください。

エンタテインメントとしての物語


羊をめぐる冒険(上) 講談社文庫

 かくして第三章以降に長い物語が展開される。すでに述べたように意図的に長編小説として引き延ばすために、各種の工夫が凝らされている。例えば陰謀論的に大衆世界を支配する政治組織というファンタジーもあり、読者や評者を幻惑する。これらは主題からすれば、長編のための趣向であり、『風の歌を聴け』(講談社文庫)におけるハートフィールド、『1973年のピンボール』(講談社文庫)におけるスペースシップと同様の装飾である。ただし、この陰謀論的な政治組織という装飾が村上春樹のお気に入りの文学的な道具立てであることは、『1Q84』(新潮文庫)でも形を変えて登場することから理解できる。

 冒険譚となる三章以降の装飾部分の仕組みは、それほど手の込んだものではないが、前二作で見られたように村上春樹らしいパズルが多少仕組まれている。終盤になって多少曖昧に種明かしされるが、高級娼婦は政治組織の側から主人公を操るために送られた女スパイであった。第六章「限定された執拗な考え方について」で、北海道に二人が旅立つ前日、売春仕事の長期休暇の前だからとして、慌てて最後の売春の仕事に出るシーンがあるが、この挿話は組織への報告活動と見なければ作品上の必然性はない。彼女の超自然的な耳によって感受されたとする各種情報も、後に敵対者(「先生」の秘書)が暴露したように政治組織として敵対者がプログラムしたにすぎない。主人公は自分の意志で「冒険」をしていたような錯覚をしていただけである。

 高級娼婦は敵対組織が送り込んだ女スパイであるという還元をした文脈でいうなら、鼠は政治思想とカリスマ性をもった人物であり、世界支配を狙う政治組織は彼をリーダーとして頂くことを渇望していた。しかし鼠自身は、カリスマ的な能力を発揮することにはためらいがある。そこで鼠と政治組織の双方の思惑から、主人公が対立の媒介役として引き回される。主人公はいわば主体性のないただの将棋の駒にすぎない。

 こうした仕掛けはいかにもエンタテイメント作品らしい。ビデオゲームのようにあっさりとした二つの勢力の抗争として見てもよい。政治組織に対立する主人公と鼠である。政治組織の目的はカリスマ的リーダーとしての鼠を擁立することであり、鼠の目的はそれを主人公と組み、自殺を使って阻止することである。『羊をめぐる冒険』のエンタテイメント性を表層だけで見るなら、鼠という一人の狡猾な男が、陰謀戦を知略で乗り切り、敵対政治組織を壊滅するお話である。鼠は自身の弱さを力説するので読者は幻惑されやすいが、彼は陰謀組織に優る陰謀策士であり、最後の自爆攻撃によって政治組織を倒した。知恵比べというチープトリックで楽しませる『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)に近い筋立てである。

 このエンタテインメントにも見える主要な物語の部分は、作品全体の入れ子構造に戻って主題を問い直さなおさないと意味が読み取れない。では、初期二作から事実上継がれた、「直子の自死への自責」という主題は、結局、この作品全体ではどのような解法が与えられているのか。初期二作との連携で言うなら、『風の歌を聴け』における「自己療養」、『1973年のピンボール』における「出口」は、この『羊をめぐる冒険』でどのように転換されたのか。「自己療養」つまり「どんなに運命が過酷でも愛を伝えること」と、「出口」つまり「暫定的な日常生活への回帰」が否定された後に残る解答はなにか。

「終わること」の受け止め方

 それは「終わること」である。高級娼婦に10年に近い時間を問われたとき、主人公は「とても長かった気がするな。とても長くて、そして何ひとつ終わっていない」と答えたことは記した。この物語は、前二章で示された喪失が、そのまま未来に向かって先見的に予定されているにもかかわらず、その喪失を主体的に受け止めるために展開されてきた。「終わること」のためにである。

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