ある男

ある男(37)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 城戸は、美涼と連絡を取り合い、名古屋行きののぞみは、隣同士の座席にした。

 彼女は東京からで、城戸が新横浜で指定席の車両に乗ると、軽く手を振って笑顔で迎えられた。

「髪切ったんですか?」

「昨日。」

「え、今日のために?」

「ううん、たまたま。」

 ニット帽から覗いている髪は、辛うじて肩に届く程度で、色はダーク・ブラウンに染め直されている。格好は以前と変わらず、この日は、ミリタリー風のジャケットに細身のデニムを合わせていた。城戸は、美涼に会うのは三回目だったが、隣に座ったのは初めてだった。甘い苦みを含んだような柑橘系のコロンの香りがした。

 城戸自身は、ネクタイなしでスーツを着てきた。

 九時台の新幹線だったが、乗客は疎らで、彼らの二人席の前後は空いていた。

 名古屋までは一時間半で、しばらくは、この数ヶ月ほどの間、どうしていたのかを互いに語り合った。

 美涼は、バーを辞めた話をしたが、その理由は、「マスターの猛攻をしのぎきれず。……」と苦笑した。

「最初は冗談半分だと思ってたけど、段々、口説き方が本気になってきちゃって。」

「本気なのは、一目瞭然でしたけど。」

「わかりました?」

「それは。……でも、気持ちはわかりますよ。あんな狭い店で、隣にこんな美人がいたら、好きにもなるでしょう。」

「そういう好かれ方をするのが、わたしの人生なんですよ。浅ーい感じ。」

 美涼は、おかしそうに言った。城戸は、その大きな笑顔を横から見つめた。

「わたし、それに、あの人たちの会話について行けないんです。カウンター・デモに行ったあたりから、なんかもう、あのお店にいるのが面倒臭くなって。元々、お金のためっていうより、趣味でやってただけだったし、楽しくないのにいても仕方がないから。深夜までずっと立ってるのも辛くなってきて。もう若くないですよー。」

「辞める前に、もう一度、飲みに行きたかったなあ。ウォッカ・ギムレット、すごく美味しかったから。」

「えー、あんなの、いつでも作りますよ。でも、お店だとわたしが飲めないから、どっか飲みに行きましょうよ、今度。」

 その一言の扱い方次第で、未来が変わるような夢想が、城戸の中に一瞬けぶってすぐに消えた。そして、

「飲んでましたよ、僕が行った時も。」と受け流してしまった。

 美涼も、特段それを気にする風でもなく、

「あの時だけですよ。いつもはカウンターの中で、飲まないんです。」と笑った。

 それから美涼は、「谷口大祐」名義のフェイスブックの偽アカウントも、恭一にしつこく言い寄られて大げんかになり、放置していたのだと呆れながら言った。

「あの人、ダイスケを探したいっていうより、アレで、わたしと連絡を取り続けたかったんですよ。結局、本当にダイスケが連絡してきたから、複雑な心境ですけど。」

「弟が殺されてるかもしれないってあれだけ言ってたのに、そういう風になるのかな。……僕は、あの人は悪い人だとは思わないけど、そういうところがよくわからないんです。」

「今回のことで、そうなったわけじゃないんですよ。昔から。……言ってなかったけど、あの兄弟の仲違いには、わたしも多分、ちょっと関係してるんです。わたし、恭一くんに好かれてたから。」

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

コルク

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