ある男

ある男(35)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 城戸が担当した過労死事件の民事訴訟は、二月十五日に和解が成立し、被告の居酒屋チェーンとその役員個人は、併せて八千二百万円の支払いと、八項目からなる再発防止策の実行を約束した。完勝と言って良い内容だった。

 城戸は、二十七歳で自殺した息子の遺影を携えた遺族と記者会見に応じ、終了後に一緒にイタリア料理を食べに行って三時間ほど歓談した。裁判の話はあまりせず、世間話が多かったが、別れる際には両親から、両手で強く握手され、感謝された。

 城戸は嬉しかったが、二人の老後を想像すると、心からの喜びとはほど遠い感慨だった。そして、これほど悲惨な事件でありながら、自分が、最後までほとんど動揺することなく、弁護士然として仕事を終えたことを思った。


 香織との話し合いの後、城戸は改めて、原誠の人生を追い続けることにも、どこかで区切りをつけるべきだろうと考えるようになった。そのためには、どうしても、谷口大祐を探し出して無事を確認し、出来れば、原誠に会った時の話を聞きたかったが、捜索は依然として手詰まりのままだった。

 事態が急転したのは、ニュースでカウンター・デモの映像を見たのをきっかけに、数ヶ月ぶりにすずに連絡をしてからだった。

 美涼は、自分がテレビに映っていたとは知らなかったようで、驚きつつ、「二回、行きましたよー。」と弾むような調子で返信をくれた。だからどうだという、くどくどしい説明はなく、すぐに「そう言えば、年末にSunnyを辞めました。色々あったのですが、また今度、お話ししますね。」と続けてあった。

 あの飲み屋に行っても、もう彼女には会えないのかと、城戸は寂しく思った。一月末に、北千住のボクシング・ジムを訪れたあとは、久しぶりに覗いてみようかと思わないでもなかったが、行ってみても、彼女は既にいなかったのだった。

 美涼からのメールには、それとは別に、意外な話が含まれていた。

 昨年、美涼と谷口恭一が、「谷口大祐」の名前で取得したフェイスブックのアカウントは、何者かの報告により、凍結されてしまっていた。解除は難しくなかったが、美涼は元々気が進まないままやっていたのと、恭一との関係が「難しくなった」のとで、その後は放置していた。

 最近になって、彼女は自分自身のアカウントのメッセージ機能で、「友達リクエスト」という通常とは別のフォルダーがあるのを知り、開けてみて、数年分の未読のメッセージを発見し、驚いた。そこで、「谷口大祐」宛ての「友達リクエスト」のフォルダーも開いてみたところ、「Yoichi Furusawa」という名前の、写真もなく、ほとんど投稿もしていないアカウントから、「警告文」なるメッセージが届いていたのに気がついた。

 内容はこうだった。

「あなたに代理人として警告します。ただちに、このなりすましの偽アカウントを削除してください。対応がなされない場合は、しかるべき方法で、法的に対処いたします。」

 誰の「代理人」なのかは省略されていた。

 このアカウントは今も存在しているが、更新されている様子はなく、結局、何の対応もしなかった「谷口大祐」のアカウントに対しても、「法的に対処」がなされた形跡はなかった。凍結は、恐らくこの人物の仕業なのだろう。

 美涼は、このメッセージが、谷口大祐本人から送られている気がする、と言うのだった。

「なんか、一生懸命、恐そうに書いてるけど、詰めの甘いところが、いかにもダイスケって感じなんですよねー。」

 城戸はむしろ、小見浦の関係者が、戸籍交換者たちのためにしている一種の〝アフターケア〟なのではないかと疑ったが、いずれにせよ、この人物にコンタクトを取ってみることにした。

 美涼のメッセージは、最後に、「城戸さんはお元気ですか?」という、平凡だが余韻のある問いかけで終わっていた。


 城戸は、谷口大祐を探すのに、恭一の手を借りることを諦めていた。

 恭一は、小林謙吉についてネットで検索し、その凄惨な事件の内容にいよいよ激しい拒絶反応を示していて、とにかく、もう関わりたくないといった感じだった。何度となく、城戸に「別世界」という言葉を用い、せっかく恵まれた環境で生まれ育ったのに、わざわざそんな連中のいる場所に足を踏み入れていった弟は、救いようのない馬鹿で、自業自得だ、と以前よりも一層辛辣に罵倒した。下手に関与して、自分までこの事件に巻き込まれるのは真っ平だと吐き捨てた。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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