ある男

ある男(34)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 ほど経て、香織がリヴィングに戻ってくると、「なんでああいうの、見せるの?」と夫を非難した。

 昨年末に、香織が関西出張に行った後、クリスマス、正月とイヴェントが続いて、颯太や実家の両親の手前、表面的にでも明るく言葉を交わしているうちに、夫婦関係も多少上向いていたので、城戸は妻の険しい目つきに、このあとの会話を案じた。そして、努めて呑気な調子で、「見てたら起きてきたんだよ。」と言った。

「消したらいいじゃない、すぐに。」

 城戸は、頷いたものの、ウンザリした顔になっているのが自分でもわかった。香織は、立ったまま夫を見ていたが、やがて、これだけは言っておきたいという風に口を開いた。

「あなたのルーツのことはわたしだって理解してるし、その上で結婚してることも知ってるでしょう? こんなこと言いたくないけど、反対がなかったわけじゃなかったし、だけど、わたしは説得したの。──でも、現実として、さっきみたいな人たちもいるんだから、颯太のことは守ってあげないといけないでしょう? あなたのルーツのことは、もっと大きくなってから話すってことでいいって言ってたじゃない?」

 城戸は、座り直すと、ソファの背もたれ越しに立ったままの妻を見つめた。話し合わねばという思いと、幾分かは、もうなるようになれという気持ちとから、口にすべき言葉を探したが、どこから手をつけて良いのかわからなかった。

 妙なことに、城戸はまるで、他人を見ているかのように、香織をつくづくきれいだなと感じた。

 事務所では、「城戸さんの奥さんは美人」ということになっていて、こども園の保護者の間でも、どうやらそういう評判らしかった。颯太はそれを自慢にしていたし、城戸自身がそう思って結婚したことは間違いなかった。そして、そんなことが今になって急に意識されるのは、別れ話の前触れとしか思えず、彼はいよいよ言葉に窮した。

 黙っている夫を見ながら、さすがに香織の目も不安げに張り詰めた。これまで互いに踏み越えずに来た一線を、夫が越えようとしているのではと感じたらしかった。

 城戸は、妻の方が先走って覚悟を決めてしまうのを恐れて、ともかく口を開いた。

「──辛くなってる、今の状況が。……結婚生活は続けたいから、状況をよくするための話し合いをしたい。」

 香織は、口許に、ほとんど見間違えのように微かに笑みを過ぎらせた。そして、

「わたし、今、そんな話したっけ?」

 とぎこちなく首を傾げた。城戸には意外だったが、彼女は、離婚の意思を持っていない様子だった。数ヶ月前には、今にも自分から切り出しそうな雰囲気だったが。──そして、夫がそう打ち明けざるを得なくなったことに同情さえしているような眼差しになった。

 城戸も、少し表情を和らげて静かに言った。

「まず、これまで何度も言ったけど、俺は浮気はしてないよ。」

「それはもう、いいの。──最近は、言ってないでしょう、何も?」

「無言は無言で不気味だよ。」

「被害妄想ね。」

「よく言うな、自分から疑っといて。」城戸は頬を歪めて苦笑した。「……ただ、浮気じゃないけど、この一年、とある人物のことをずっと調べてて、それにのめり込んでたから、そう見えたかもしれない。女性じゃなくて、男だよ。仕事に関係のある話だから、言わなかったけど。」

「誰なの?」

「──死刑囚の一人息子なんだよ。……」

 城戸は、このところ、パソコンに向かって執筆を続けてきた原誠の人生について、初めてまとまったかたちで人に語った。小林謙吉の生い立ちから始めて、その殺人事件の内容、原誠が受けたいじめ、母親に捨てられて施設に入ったこと、ボクシング・ジムに通い、プロデビューした後、〝事故〟でその夢が潰えてしまったこと。……

 香織は、そんなことをどうして自分に話しているのかと、最初は怪訝そうな顔をしていた。夫があまりに熱心に語るので、聴いているというより、その様子を見守っている風だった。

 それでも、原誠の戸籍交換に話が及ぶと、「そんなことって、あるの?」と、半ば気遣いめいた興味を示した。里枝のことは曖昧にぼかしたが、彼がその後、子供を亡くした不遇な女性と結婚し、短いながらも幸福な家庭を築き、最後は林業の伐採現場で事故死したことは話した。

 香織は、最後までつきあったものの、やはり不可解そうに、

「数奇な運命だけど、……彼の人生が、あなたにとって何なの?」と尋ねた。

 城戸は、妻らしい身も蓋もない問いかけに、自嘲的に言った。

「さァ、……最初は何でもなかったんだよ。ただ依頼者の境遇が不憫で引き受けた仕事ってだけで。そのうちに、他人の人生を生きるってことに興味をそそられていって、彼が捨てたかった人生のことを想像して、……現実逃避かな。面白い小説でも読んでる気になってるんだろう。」

「悪趣味ね。」

「そう?」

「何から逃避したいの?」

 城戸は、妻の顔を見たが、返答に詰まった。

「……色々だよ。何だかんだで、……震災の後遺症もあると思う。自然災害だけじゃなくて、さっきテレビでやってたみたいなこともあるから。……」

 城戸は、それらに起因する夫婦の関係の悪化を当然に考えたが、口にはしなかった。

「あなただけじゃないでしょう、それは?」

「そうだね。……君のストレスも、もっと気遣うべきだったと思う。」

「カウンセリングにでも行ってきたら?」

「何?」

「そんな大袈裟に考えなくても、話を聴いてもらうだけでも、気分が変わるんじゃない? あなたの仕事、そうでしょう?」

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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