ある男

ある男(33)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 夕食にすき焼きを食べ、颯太が今日は母親と一緒に寝たいというので、入浴後は妻に任せて、城戸はキッチンで洗い物をした。それから、ソファに寝転がって、ミシェル・ンデゲオチェロを聴きながら、バンドでベースを弾いていた大学時代のことを取り留めもなく思い出した。自分も中北くらい達者だったなら、今もバンドを続けていて、それがきっと良い人生の息抜きになっただろうになどと、ぼんやりと考えた。そのうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

 酷く疲れていた。

 目を覚ましたのは、十一時を回った頃だった。裸足の指先が冷たく、暖房の温度を上げて、何となく、普段は見ないテレビをつけた。しばらくザッピングをしていると、旭日旗を掲げた物々しい集団が、「朝鮮人をガス室に送れ!」などと叫びながら、白昼堂々、通りを練り歩いている映像が目に飛び込んできた。ニュース番組の「ヘイトスピーチ」の特集らしく、城戸は、選りにも選ってと、辟易してテレビを消そうとした。

 ところが、「現場には、カウンター・デモをする人々の姿も──」というテロップとともに、「仲良くしましょう! チナゲチネヨ!」というプラカードを持った女性が映し出されたところで、驚いてソファから飛び起きた。一瞬だったが、恐らく美涼だった。

『──何してるんだ、こんなところで?』

 その時、背後で、「……おとうさん、」と呼ぶ声が聞こえた。

 振り返ると、颯太が寝ぼけ眼を擦りながら立っていた。

「ん? どうした?」

「めがさめた。……なにみてるの?」

 颯太がソファに歩み寄ってきた。城戸は、警察を挟んで、デモ隊が怒鳴り合う声を聞きながら説明に窮した。すると、次の瞬間、唐突にテレビが消えた。

「そうた、おいで。もうねないと。」

 颯太を探しに来た香織が、リモコンをテーブルに音を立てて置いた。

 城戸は急にテレビを消されたことに気分を害したが、香織は何も言わずに、颯太の手を引っ張って寝室に戻った。


 城戸は、手許のもう一つのリモコンで、またテレビをつけかけたが、改めて見たいとも思わず、結局、妻の判断に同意するより他はなかった。

 さっきのは本当に美涼だったのだろうかと振り返ったが、記憶はもう曖昧になっていた。横浜美術館の近くで昼食を共にした時、彼女はカウンター・デモに触れて、確かに、「じゃあ、城戸さんの代わりにわたしが行ってきます。」と言っていた。しかし、城戸は、真に受けてはいなかったし、ほとんど忘れかけていた。

 しばらく美涼とは連絡を取っていなかったが、彼女が、自分と交わした約束を密かに実行に移していたことを知って驚いた。彼女らしいと感じ、笑顔になったが、彼女の行動自体には、嬉しさとも苦しさともつかない、複雑な思いを抱いた。

 彼は、彼女の中で、自分の存在がそれなりの場所を占めていたことを喜んだ。決して簡単なことではないはずだった。けれども、その関与を、どうしても手放しで歓迎することの出来ない自分の屈折に溜息が出た。

 城戸は常々、自分の在日への眼差しは、『アンナ・カレーニナ』の中で、リョーヴィンが農民に対して考えていることと大体同じだと思っていた。

「もしもおまえは農民を愛しているかと聞かれたら、リョーヴィンはまったく返答に窮したことだろう。彼は人間一般に対してと同じく、農民のことも愛しかつ憎んでいたのだ。もちろんお人好しの彼は人を憎むよりは愛するほうが多かったから、農民に対しても同じ態度をとった。だが農民を何か特別な存在と見立てて、愛したり憎んだりするようなまねは、彼にはできなかった。なぜなら彼は単に農民とともに暮らし、農民との間に全面的な利害関係を持っているだけではなく、同時に自分自身をも農民の一部と感じていて、自分にも農民にもなんら特殊な長所や欠点を見出そうとはしなかったし、自分を農民の対極におくことはできなかったからである。」

 そして城戸は、彼が思想的に親近感を抱く人々が、在日問題に関わろうとする時には、しばしばリョーヴィンが、兄のコズヌィシェフを、「ちょうど田舎生活というものを自分の憎む生活の対極にあるものとして愛し、褒めそやしていたように、農民のことも彼は自分が嫌う階層の人間の対極にある存在として愛していた」と批判するような居心地の悪さを感じるのだった。


 城戸はとにかく、カテゴリーに人間を回収する発想が嫌いで、在日という出自が面倒なのも、それに尽きていた。当たり前の話だが、在日の中にも、善人もいれば悪人もいて、またその善人の中にも嫌なところがあり、悪人の中にも、恐らくは彼の知らない善いところがあるのだった。

 リョーヴィンが、コズヌィシェフを「兄にせよその他多くの社会活動家にせよ、けっして心の声に導かれて公共の福祉への愛に目覚めたのではなく、その仕事に携わるのが良いことであると理性によって判断し、ただそれゆえにその仕事に携わってきたのである。」と批評するのは、まったく的を射ていると思われた。

 ところが、これこそは、城戸自身の「公共の福祉への愛」を妻が信用できない理由そのものなのだった。

 彼は、今また、その矛盾に思い当たって、ソファで片膝を抱えながら、考え込んでしまった。

 勿論、自分自身が当事者である問題は複雑だった。しかし、帰化する以前から、ほとんど完全に日本人として成長した彼は、そもそも自分が、コリアン・タウンの在日の問題の当事者なのかどうかさえ、甚だ心許なかった。彼は自分と彼らとの間に、リョーヴィンが、一日ヘトヘトになるまで農民と汗を流し、あの得も言われぬ美しい夜に感じたような「陽気な共同作業」への心からの愛が芽生える日が来ようとは、どうしても想像できないのだった。

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文藝春秋
2018-09-28

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