ある男

ある男(31)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 北千住のボクシング・ジムから戻ると、城戸は、走り書きのメモを元に、二人から聴いた原誠の話を、記憶している限り、文章にしていった。それだけでなく、これまで雑然と記録していたこの一年あまりに亘る調査を、彼の生涯に関連づけるかたちで、一から整理し直した。

 里枝に報告するためで、ようやく、その段階に達したと感じた。そして、作業を通じて、今までなぜか思い至らなかった、一つの単純なことに気がついた。


 城戸が、小見浦憲男の存在を知ったのは、二〇〇七年に、東京都足立区の五十五歳の男性が、六十七歳の別の男性と戸籍を交換していた例の事件だった。

 この裁判を傍聴した〝法廷マニア〟のブログによると、小見浦が「過去のロンダリング」の仲介を始めたのは、前年の二〇〇六年のことらしい。きっかけは、意外にも、一九九三年にイギリスのリバプールで起きた「ジェームズ・バルガー事件」の報道だったという。

 当時十歳だった少年二人が、ショッピング・センターで誘拐した二歳のジェームズ・バルガーを惨殺したこの事件は、イギリス国内のみならず、世界中に衝撃を与え、憤激を巻き起こし、ほとんど厭世的なやるせなさをまんえんさせた。

 二人は、十八歳になると、八年の刑期を終えて、猛烈な反対運動が起こる中、残りの人生を〝別人として〟生きるための、まったく新しい身許を与えられ、釈放された。

 この元受刑囚二人のうち一人が、周囲に感づかれないまま結婚し、とある企業のオフィスに勤務しているという情報がタブロイド紙に暴露されたのが、二〇〇六年六月だった。小見浦は、このニュースに「ピンと来て」、戸籍の売買や交換を思いついたらしい。

 発覚している以外にも、かなりの数の仲介をしているらしく、小見浦がやたらと「朝鮮人」と連呼していたのも、顧客の中に実際に在日や外国籍の人間が含まれていたか、或いは、その需要を当て込んでいたからだろう。気に入らない場合には、数度に亘って戸籍を交換した者もあったらしく、城戸が今更のようにハッとしたのは、そのことだった。

 彼は、〝X〟こと原誠が、どうして田代昭蔵のような知的障害のあるホームレスに、死刑囚の息子としての自分の戸籍を押しつけたのか、ずっと疑問だった。城戸はそれに失望し、この長い〝探偵ごっこ〟に、一種の徒労感を覚えていた。ナイーヴすぎる期待ではあったが、里枝の思い出の中に生きている夫は、決してそのような人間ではなかったはずだった。

 しかし、田代が戸籍を交換した相手は、そのいかにも不安定な証言を信じるならば、原誠ではないらしかった。少なくとも、彼が会ったのは原誠ではなく、「原誠」を名乗る別人だった。

 つまり、最初の推理とは少し違って、恐らく、こういうことだった。

 原誠は、最初にまず、田代ではない誰か別の人間と戸籍を交換しているのである。そして、死刑囚の息子という厄介な「原誠」の戸籍を引き取ったその男が、それを、田代と交換したのだろう。いずれも、小見浦の仲介によって。

 そして、城戸の推理では、その原誠が最初に戸籍を交換した別の人間こそが、小見浦が件のヌードのハガキに書き込んでいた「曾根崎義彦」なのだった。

 これを、原誠の立場から改めて考えると、こういう話になる。

 彼は、ネットか何かで小見浦の存在を知り、最初はまず、「曾根崎義彦」という人間になった。しかし、何らかの理由で、それが気に入らなかったのだろう。次に、谷口大祐と知り合い、彼と二度目の戸籍交換を行って、「谷口大祐」としてS市に行き、そこで里枝と出会うのである。

 もしそうだとするならば、谷口大祐こそが、今は「曾根崎義彦」と名乗っていることになる。勿論、彼がその後、更なる戸籍交換を重ねていなければ。

 そして、そもそも彼が、まだ生きていれば。──


 城戸は、自分が向き合っているパソコンのワープロソフト上で、これまで遍在し、ただ失われるに任せていた原誠という人物が、言葉によって出現し、再び確かに存在してゆくのを実感した。弁護士としての彼の仕事は、基本的にはそうして、起きたこと、それに関係した人を言葉にすることだったが、裁判で起案をするのとは違って、目的に収斂しゆうれんさせることなく、無駄と思えるような細部に至るまで、極力書き留めようとした。それは、火葬場で、愛する人間の遺骨を、少しでも多く拾い集めようとする遺族の心情に近かった。

 原誠本人が、肉体を以てこの世界に存在していた時には、それらの過去はただ、消えるに任せられていた。寧ろ積極的に、消したいと思っていたのかもしれない。なぜなら、生きようとしている実体としての彼にとって、過去は重荷であり、あしかせだったから。──けれども、その実体が亡くなった今、彼を愛する人が、すべてを愛を以て理解してやれるなら、彼の全体は恢復されるべきではあるまいか。

 そうしてしゆつたいする一個の人間が、「原誠」と呼ばれるべきかどうかはわからなかった。しかし、城戸は明らかに、これまで情報の断片に惑わされながら、彼自身が酷く不安だったのに対して、かたちを成しつつある原誠の存在と呼応するように、自分という人間もまた、まとまりをつけ、一つに練り上げられてゆくような感覚になった。


 城戸は、この〝探偵ごっこ〟が、ほどなく終わりを迎えるであろうことに、言い知れぬ寂しさを感じた。そろそろ潮時であることは、彼自身が痛感していたが、このあとに訪れる空虚を想像すると、索漠とした心境になった。

 寂しさ。──そう、情けないことに、彼はこのところ、自分の胸中に蟠っわだかまている感情を、臆することなくそう表現していた。

 それは、若い頃には想像だに出来なかった、中年の底が抜けたような寂しさで、少し気を許すと、無闇な冷たい感傷が、押し止める術もなく、彼に浸潤して来るのだった。

 そういう時、彼は、あの北千住の公園に突っ伏して号泣する原誠の姿をよく想像した。彼には、その光景は、時間と場所から解き放たれて、ほとんど神話の一場面のように感じられた。なるほど、今すぐ直ちに、この場所で、足許に身を投げ出して泣くというのは、何か、超人間的な行為に違いなかった。にも拘らず、城戸は、自分の頬が小石混じりの砂粒にまみれて、地面に擦りつけられるその痛みを、まるで経験したかのように知っているのだった。

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文藝春秋
2018-09-28

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