左:荒井裕樹さん 右:九龍ジョーさん
「怒り」でしか守れないもの
—— バスジャックをしたり、座り込みをするような「青い芝の会」の活動について、「怒っていては伝わらない」という反応もあると思うのですが、それについてはどう思われますか。
荒井裕樹(以下、荒井) ぼくは横田さん(※)に怒られるのがわりと好きでした。ぼく自身は怒ることが得意ではないです。怒る人って2タイプあるじゃないですか。感情的にパッと怒る人と、これは怒らなきゃいけないぞと考えて怒る人。ぼくはどちらかというと後者ですね。
だからこそ、横田さんみたいにガツンと怒る人へのあこがれがありました。でも、いろいろ調べていると、どうやら横田さんも最初から怒れた人じゃないらしい。どちらかというと温厚な人ですよ。介助者や作業所のスタッフに怒ることもあるんですけど、あとですごく気にしていたりする。だから横田さんも、はじめは声も身体も震わせながら怒っていたと思うんです。
※ 横田弘(1933-2013):脳性マヒ者。詩人。運動家。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会に所属し、同会の会長などを歴任した。1970年代以降、障害者差別を告発する激しい抗議運動を担った。横田が起草した「青い芝の会行動綱領」は、現在に至るまで、多くの障害者運動家に多大な影響を及ぼした。
九龍ジョー(以下、九龍) 映画『さようならCP』でも、横田さんが仲間達から「もっとガツンと言わなきゃ」というふうに煽られるシーンがありますよね。僕が少しだけ関わらせてもらった晩年の横田さんは、穏やかな中にときおり厳しさを漂わせていました。そこに辿り着くまでにあまりにも多くの憤りや闘争やふれあいがあったと思うんですが、きっと最初は、「怒らなきゃいけない」と自分に言い聞かせて怒った人だったんじゃないかと、ぼくも思いました。
荒井 問題が解決するかしないかは別として、誰かの名誉や尊厳のためには怒らなきゃいけないことがあります。横田さんから「どうして荒井君はもっと怒らないんだ」と何度か言われたんですけど、それは、ぼくという人間の中に「人の尊厳が目減りすることへの危機感」が足りないことを指摘してくれていたんだと、最近になって気が付きました。
九龍 荒井さんがウェブで公開された「『相模原障害者殺傷事件』への『怒り』は足りていたか」という原稿は、まさにその「怒り」について書かれたものでしたね。
荒井 相模原の事件が起きた直後は、「池田小事件」(2001年)のことも参照されて、精神障害の人たちに対する偏見や取り締まりが厳しくなるとみんな考えていた。だからぼくも、某誌の緊急特集号に「これは冷静に考えなければならない」と書いたんです。
でも、冷静に考えられてしまう自分ってなんなんだろう。だって、19人も殺されて、20人以上がけがをしている。取り乱して、怒っていい事件のはずなのに。社会全体もわりと冷静でしたよね。でもそれって「この社会には、殺されても特に気にならない特定の人たちがいる」ということになってしまう。そのおぞましさに気が付いて、冷静でいてしまった自分に愕然としました。
もちろん、身勝手な理屈でとんでもないことをした犯人への怒りはあります。でも、それだけじゃなくて、これだけの障害者が殺されたこと、尊厳が傷つけられたことに対しても、もっと怒らないと。
インターネットは、「個人の顔」を消去する
九龍 ぼくは相模原障害者殺傷事件の犯行の真の理由が、実はお金目当てや個人的な恨みであってほしいといまだにどこかで願っているところがあるんです。でも、犯人は社会にとって「よい」ことだと思って19人もの命を奪ったという。そんなことがまかりとおる世の中、どうかしてますよ。本当なのか? 本当にそんなことを思って実行に移した人間がいるのか!? って、正直、混乱してしまうんです。
荒井 しかも、彼は施設の元職員だった。ぼくらは差別を乗り越えようとするときに、「現実の個人と向き合ってください」という言い方をしてきました。それが差別に抗う一つの方法なんだとぼくも信じていたし、そう教えてきた。でも、彼は現実の付き合いのなかで憎悪を膨らませていったわけですよ。
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