2 ビデオテープよ回れ
人は死ぬとき、頭の中を思い出が、走馬灯のように駆け巡るという。
果たしてそのとおりだった。幼い私が見えた。この頃はまだ両親とも生きていたし、仲は悪くなかった。小、中学生と成長していく自分に目を細めた。
考えてみる。私が人生でいちばん幸せだったのはいつだろう? 自分がこの世界の主役と疑わなかった頃は。
記憶のビデオテープを、ゆっくり目にしてみる。
するとドルフィン・ソングが映し出された。
そうだ、十五から十七歳の頃がもっとも光り輝いていた。
初めて恋をしたのも(とてつもなく間違った恋だったが)、若さゆえに怖いものを知らず、されど自由だったのも、あの頃だった。
朦朧としながら、枕元のスマフォに手を伸ばす。
葬送曲として流していた「iTunes」のプレイリストに目をやる。
吉田拓郎からニルヴァーナへと絶妙なセンスを感じさせる選曲から、とっておきのアルバム三枚へとスキップする。これぐらいの時間に意識を失うだろうと予想し、トリに残しておいたが、死ぬ予定の時間を繰り上げることにした。
ドルフィン・ソングの歌が流れる。その瞬間、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになった。 スマフォの画面にアルバムジャケットが映る。二頭のイルカと、金とピンク色の髪をした、ふたりの美少年がニコリともせず、こちらを見ている。
島本田恋、ドルフィン・ソングのボーカル。
三沢夢二、同じくドルフィン・ソングのギター。 「恋」と「夢」だが、ふたりとも、れっきとした男だ。
彼らは同い年で、クールでキザで、そして天才の中の天才だった。
一九九〇年前後、世の中はバンドブームで、歌謡ロックが一世を風靡していた。そこにドルフィン・ソングが現れた。ボーダーのシャツにベレー帽。アニエスベーや、冬はアノラック系のスマートなファッション。パッと見オシャレで、それまでの革ジャンと縦ノリの、汗を飛び散らす貧乏臭いロックとは明らかに一線を画していた。
ポップで趣味のいい、良質な音楽。だけど歌詞をよく読むと刹那的で、シニカルと熱が同居していた。苛立ち、自惚れ、虚無主義。切ないメロディから舌打ちが透けて聴こえた。青臭い、若書きと言われようと、私は彼らの歌に共感した。
島本田恋は父親が俳優で、アメリカ人の母親とのダブル。大学までモデルをやっていた。当時は「モデルがロックだあ?」と色眼鏡で見られたが、恋という先駆者がいたから、その後、木村カエラはうるさ型のロックリスナーにも、すんなり受け入れられた。
三沢夢二は父親が歌人、祖父が政治家。兄が作家。本人も東京大学卒という、申し分のない家柄。そういうエリートの血筋にも私は憧れた。 熱狂的なファンはふたりの髪の色を真似て、恋派は金に、夢二派はピンクに染めあげ、それぞれ「ラブ男」「ユメっこ」と呼ばれた。「ふたりとも大好き! 選べない!」というファンは、金とピンクの二色を入れることで両者支持を表明した。
私は断然「ユメっこ」、三沢夢二派だった。ボーカルよりギターを好きになるほうが「わかってる」感じがしてカッコいいし、何より私は頭のいい人が好きだった。
ふたりともキラキラしたルックスにもかかわらず、インタビューでは聞き手を煙に巻き、手加減のない毒舌を浴びせた。人を喰った発言が売りのひとつになっていた。
凡庸な喩えが許されるなら、ふたりは一卵性双生児だった。長身で、細身で可愛い顔をしていて、雰囲気もよく似ていた。恋も夢二もお互いと出会うまで、同じレベルの音楽センスと知識量を持った人が周りにいなかっただろう。レノン&マッカートニーやモリッシー&マーを彷彿とさせる、理想のソングライター・チームに見えたが、同時にガラスのように脆くて壊れやすい関係だった。
ドルフィン・ソングの終わりはあっけなく、思わぬ形でやってきた。
一九九一年十月二十七日、ツアーを目前に控えてのリハーサルに姿を現さないふたりを心配したスタッフが、警察に捜索願を提出。それから三日後の三十日、三沢夢二が「島本田恋を殺しました」と自宅近くの赤坂警察署に自首した。
人生であれほど驚いたことはない。事実、私はライブ会場で知り合った同じファンの女の子から掛かってきた電話で聞かされて、受話器を握りしめたまま失神した。テレビのニュースを食い入るように見つめ、刑事たちに連行される、俯いた夢二にふたたび気を失った。
「若者に人気のバンド『ドルフィン・ソング』、ギターがボーカルをメッタ刺し」
「高学歴エリート、華麗なる一族の闇」
「金銭か? 女性を巡るトラブルか? 二十三歳、いまどきの若者の象徴」
翌日以降の新聞や週刊誌は全部切り抜いた。ワイドショーもザッピングして見た。そこで伝えられていたのは恋と夢二のことだったが、全部的外れのように感じた。訳知り顔のコメンテーターが「この世代のアイドルというか教祖というか、尾崎豊みたいなものですね」と得意げに語るのを見て、反射的にブラウン管を殴りつけていた。「大人は判ってくれない」という認識を私は深めた。
犯行現場となった夢二のマンション前を何度訪れたことか。
ベレー帽と、見るからに古着屋で買ってきました的なシャツに、厚底スニーカーを履いたOlive少女たちが全国から集結した。誰かが持参したCDラジカセから大音量で流れるドルフィン・ソングに合わせて大声で歌った。近隣住民からの苦情で解散を余儀なくされたが、当時の私たちはブスな泣き顔を隠そうともせず、「ひとでなし!」「あんたたちにフィンドルちゃん(注・当時は所謂〝ギョーカイ人ブーム〟だった。ドルフィン・ソングはそんな風潮を小馬鹿にしつつ、「僕たちのことを〝フィンドルちゃん〟と呼ぶように!」とネタにしているうち定着していた)の素晴らしさがわかるか!」と、しぶしぶ駆けつけた警察に楯突いて困らせた。
私たちは手作りのクッキーとハーブティーを分け合い、持久戦へともち込んだ。
その後もただ手をこまねいているだけでなく、渋谷や下北沢の街頭で、三沢夢二の減刑を嘆願した署名運動を起こした。殺人だろうと自首すれば、極刑は免れるものだ。
しかし、七人の後追い自殺者を出した社会への影響と、生前は失言により大臣を辞任したこともある、イメージの悪い政治家を祖父に持つことが世論の反発を招いた。加えて夢二が最後まで動機を明らかにしなかったこと、凶器となった刃物を事前に購入していたことから計画性があったと見られ、一審は死刑判決が下った。 これを機に私なりに司法制度を勉強してみたが、日本は検察に起訴されると、有罪率は九十九・九パーセントと知って驚いた。ちなみにカナダが六十九パーセント。イギリスが八十パーセント。共産主義である中国でさえ九十八パーセントだ。一審判決が覆った例は少ない。それでも夢二の減刑を祈り続けた。
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