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さらに、コートハンガーにも見慣れない革コート。これは間違いない。
「ン? ああ、入ってるみたいね」
鉄輪が報告書を作りながら、素っ気なく答えた。今日の鉄輪の机の上にはチョコラBBみたいな瓶が3本くらい置かれている。間違いなく、相当機嫌が悪い。
「ボク、安曇(あずみ)さんに朝会いましタ。健康診断のC日程で来たって言テましタよ」
アスカン君が答えた。彼は最年少で、いつも一番最初にオフィスに入ってる。育ちがいいらしく、なんというか、素直だ。
「へえ、健康診断で」
「マジで? アスカン、お前超ラッキーじゃん。安曇さん、超レアPOPだし」
井上が相変わらず頭の悪そうな相槌を打つ。こいつがアスカン君に日本語で追い抜かれるのも時間の問題だろう。
「安曇さんも健康診断やるのか」
おれは思わず、そう洩らした。率直にそう思った。四つ上の安曇さんは四七ソのエース的存在で、例外の塊だ。バディが基本の社内調整業務も、安曇さんだけは常に一人。デスクにも滅多に居ない。正直、どこで何をしているのかも解らない。極秘の潜入調査か。それとも日本にすらおらず、どこかでバカンス休暇中なのか。
どちらにせよ誰も文句を言わないし、言えない。こなす仕事量はおれ達の三倍以上。超人的と言っていい。室長も放任している。バディが嫌だと言われれば単独行動を認めるし、出社するのが面倒だと言われれば自由裁量もOKする。
それだけ段違いの実力の持ち主だ。
……そんな安曇さんでも健康診断を受けるのか。バリウムを飲んで、しかめっ面で機械の中でゴロゴロ回るのか。妙に面白かったし、不思議な感慨があった。
「そういえば私、安曇さんにお会いしたのはまだ1回だけですね」
向かいの奥野さんが続いた。今日の四七ソは凄い。安曇さんの話題でこんなに会話のキャッチボールが行われるなんて。
「奥野さんの歓迎飲み会の時ですよね?」
「そうです。さくら水産で」
「あの時も、途中から来て、すぐ帰っちゃいましたけどね」
おれは申し訳なさそうに苦笑した。
「香田はさあ、安曇さんのこと大好きだよね。いつもフォローするし」
鉄輪がドリンク剤をストローで飲みながら言う。
「いや、そういうわけじゃないけど。安曇さんはおれの最初のバディだからさ、恩義感じてるんだよ。銃の扱いだけじゃなく、調整する時の心構えとか、プライベートでの気持ちの切り替えかたとか、そりゃもう色々教わったよ。あの人は、マジで凄い」
「安曇さんみたいになるのが目標?」
「いや、おれにはちょっと無理だから、別な方向性で行くけどさ」
安曇さんは、三年前に四七ソに配属されて右も左もわからないお荷物状態だったおれを鍛えてくれた、最初のバディだ。多分あの期間中、おれを構っていたせいで、安曇さんのパフォーマンスは落ちていたと思う。今でも恩義を感じてるし、おれもいつかは、あの位バリバリ仕事をこなしたいと思ってる。
そこまで考えて、おれは奥野さんの席を一瞥(いちべつ)した。本来おれはキャリア的にもう一人前で、奥野さんの最初のバディとして、安曇さんのようにしっかりと振るまうべきなのだ。だが実際、おれの実力はまだまだで、むしろ奥野さんの人生経験から学ぶことのほうが多い……。
「そうなんスか? 俺、実は安曇さん越え目指してるんスよね〜!」
井上がふかす。おれは少しだけイラッとくる。
「おまえはアホか。まずは遅刻せずにアスカン君と出社時間合わせろ」
「言えてる」と鉄輪。
「大丈夫です、ボクちょっと早いだけですから」
「いやいやいや、俺そんな言われるほど遅刻してないっスよ! 前の会議の時に1回遅刻しただけですって。そういうキャラ付け、ほんと勘弁して欲しいんですけど〜」
「言い訳するな。要所要所での失敗が、後に響くんだよ」
「香田も経費の提出遅い。机の上のそのレシート束、いつ片付けるの?」
鉄輪がおっかない目で見ている。
「ああ? 気にするなって。おれの中では全部コントロールできてるから」
「そろそろ室長も来るよ、はしゃぐな」
「はい」
おれはPCに向かい、2個目のパスワードを叩き始めた。そういえば経費も奥野さんのほうが昨日先に提出していた。また先輩として不甲斐ない所を見せた。でも、もう、これでいいさ。おれは開き直っている。結局、おれはまだまだ若僧って事だよ。無理するなってことだ。
最初、奥野さんが来た時は、先輩らしく振る舞うってことに気持ちが行き過ぎて、ギクシャクしてたところがある。おれは安曇さんじゃない。安曇さんみたいにバリバリやれなくたって仕方ない。
「いやー、みんなゴメンゴメン、朝から他の部署の課長に捕まっちゃっててね。誰かこの中で、SNSとか詳しい人いる?」
室長のお出ましだ。室長はいつも笑顔だ。だがこの笑顔は……まずい予感がする。おれたちは視線を下げ、手元の書類やPC画面をニラメッコした。