ある男

ある男(29)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 年末年始は、例年通り、大晦日を近所の香織の実家で過ごし、年が明けてから金沢の城戸の実家に帰省した。

 香織は、実の父母や兄とは寛いで、義父母とも愛想良く接し、表面的には何の変哲もない正月休みだった。城戸も、家族で食卓を囲んでいる時には、極自然に妻と笑顔で会話をし、就寝のために、それぞれの実家の一室に下がってからは、布団を敷いたり、翌日の予定を確認したりと、必要な言葉を交わした。

 颯太は、近頃は父か母かどちらかが寝かしつけ、あとは朝まで一人なので、三人で川の字になって寝られることに興奮し、なかなか眠れなかった。

 離婚ともなれば、それぞれの両親に事情を説明せねばならないが、それを考えると気が重かった。颯太の親権を巡っては、香織と争うことにもなろうが、決して息子を手放す気はないながらも、妻から奪ってしまうこともかわいそうだった。離婚時の共同親権の導入に関しては、事務所でもよく議論になっている。どちらの両親も、孫を心から愛しているので、彼らにも申し訳がなかった。

 それに、今はどれほど自分を慕っているように見えていても、城戸は、父親か母親、どちらかを選べと颯太に訊いたなら、恐らくは母親と答えるであろうことを知っていた。

 いずれにせよ、何もかもが残酷で、自分たち夫婦は、決してそこまでの決断を迫られるような状況にはないはずだと、彼は妻の寝息がいつまでも聞こえてこない布団の中で、実家の暗い天井を見つめながら考えた。


 城戸は、仕事始めの多忙が一段落すると、昨年末から気になっていた、北千住にある、かつて原誠が所属していたボクシング・ジムを訪ねた。

 ボクシングは、子供の頃からテレビで世界戦の中継を見ていたが、九〇年代末からの格闘技ブームの影響で、技術的なことへの関心が強くなると、一頃よく、ネットに上げられている名勝負を見漁っていた。

 しかし、ジムという場所に足を運ぶのは初めてで、寒空の下、駅からの一本道を辿って「昭和会」という名の商店街を歩きながら、彼はむしろ、『あしたのジョー』や『がんばれ元気』といった少年時代に愛したボクシング漫画を思い出していた。

 住宅街の細い路地に立つ街灯は、携帯電話を片手に、約束に遅れた友人をぽつんと待っているような俯き加減だった。

 こんな場所にボクシング・ジムがあるのだろうかと、城戸は何度か、地図を確認したが、ほどなく、それらしい建物と看板が見えた。

 事前にメールで面会の希望を伝えると、ジムの会長はすぐに快諾の返事をくれた。原誠のことは、「よく覚えてます。」とのことで、亡くなったと知ってショックを受けていた。彼の妻が、生前の夫のことを知りたがっていると説明すると、当時、一緒に練習していた選手にも連絡してくれることになった。


 ガラスの引き戸を開けると、リング上に一人、フロアに二人いた準備中の若者が、ちらと城戸を見て、「会長さーん!」と奥の事務室に声を掛けた。

 出てきたのは、五十歳くらいの黒いトレーニング・ウェアの男性だった。メールでやりとりをしたすげという名のジムの会長で、城戸が挨拶をすると、血色の良い笑顔で迎えてくれた。

 元々は精肉工場だったらしく、高い天井から、ぶっきらぼうに蛍光灯が下がっていたが、部屋の広さに対して本数が少ないのか、見上げると眩しい割に、全体は薄暗かった。

 赤や黒のサンドバッグが何本も吊されている間を抜けながら、奥に通された。

 テクノが流れていて、三分おきに時間を知らせるブザーが鳴った。四方の壁には、マイク・タイソン対イベンダー・ホリフィールドといった、かつての有名な世界戦やジム主催の興行のポスターが、所狭しと貼られている。ジムの創設者の遺影と訓辞、日々のトレーニングメニューなどが、歴代のチャンピオン・ベルトと一緒に飾られた一画があり、城戸には何もかもが珍しかった。

 事務室では、原誠と一緒に練習していたという元プロボクサーの男性が待っていた。柳沢やなぎさわという名前で、原誠よりも少し年上らしく、今はもう引退していて、錦糸町の釣具店の名刺を渡された。

 城戸は、事前にメールで伝えた内容を確認するつもりで、簡単にここに至るまでの経緯を説明し、〝X〟の写真を見せて、「この人が原誠さんですか?」と尋ねた。

 会長の小菅も練習仲間の柳沢も、一目見て、「ああ、マコトです。」と頷いた。

「確かにそうですか?」

「ええ、先生が来られるっていうんで、古い写真を引っ張り出してきたんですよ。──この人ですよね?」

 小菅は、赤いグローブを手につけて、ファイティング・ポーズを取る原誠の写真を見せた。かなり体重は絞っているが、間違いなく〝X〟だった。

 やっと辿り着いた、と、城戸はしばらく言葉もなく、その写真を見つめていた。肩口に兆した戦慄が、どこに駆け抜ければ良いかわからぬように何度となく背中を走り、腕や足に散った。

 死刑囚の絵画展で、唐突に閃いた、〝X〟は、小林謙吉の子供ではないのかという直感は、この瞬間を示唆していたように思われた。そして、もとより、結局は無関係だったと判明し、嘆息する以外になかったであろうようなその当て推量が、正しかったことのふしぎを、当の本人が茫然としつつ噛み締めた。

「マコトは、何で死んだんですか?」

 城戸があまり何も言わないので、会長の小菅が尋ねた。城戸は、正気に戻ったように顔を上げると、

「林業に携わっていて、最後はその現場で亡くなったんです。」

 と言い、更に差し障りのない範囲で説明をした。小菅は、腕組みをして、口を半開きにしたまま聴いていた。柳沢も、顎に梅干しの種のような皺を作って相槌を打っていた。

 城戸はその様子から、彼らが原誠の生い立ちを知っていることを察した。

「いつ頃ですか、彼がこのジムに通い始めたのは?」

「九五年の春ですよ。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が立て続けに起きたあとだったから、よく覚えてますよ。」

「ああ、……あの年ですね。」

「なんか、逃げてきたオウムの信者なんじゃないかとか、最初言われてましたよね?」

 柳沢が、ぼそっと、冗談めかして言った。小菅は、怪訝な顔をした城戸に、慌てて、

「いや、マコトは自分のことを全然話しませんでしたからね。あと、目がとにかく独特で、何か事情がありそうな感じでしたし。繊細な、人と接するのが苦手な感じと、なんか、迫力のある腹の据わったところと。」

「写真で見る限りは、優しそうな目ですけど。」

「これ見たら、ここにいた時よりも、そんな感じがします。この奥さんと一緒になって、幸せだったんじゃないですか?」

「ええ。──そうだったみたいです。」

 城戸は、心からそう感じて頷いた。

「ボクサー時代は、これですから。」

 小菅が改めて示した昔の写真の原誠は、確かに、目だけを見ると、別人のようだった。

「まあ、でも、優しい、いい男でしたよ。別に、虎みたいな恐い目をしてたわけじゃなくて、何て言うのかなあ、……」

「よく見てましたね、色んなものを。」

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

コルク

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