ある男

ある男(28)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

「原誠」として、東中野駅の側にあるカフェに現れたその男は、戸籍によると城戸と同い年のはずだが、どう見ても四十代後半か、五十代の風貌だった。

 瘦せていて、白髪交じりの坊主頭は、上から何かで押さえつけられたように平らに潰れている。薄い上瞼が重たく垂れていて、全体に左に歪んだ顔は、中心を逸れた小さな顎の先端で、頼りなげに結ばれている。城戸は、その細い、ツンと突き出した鼻っ柱に目を遣った。とても元プロボクサーで、「殴られすぎて、バカになった」というほど、パンチを受けてきた顔には見えなかった。

「ああ、先生!」

 先にテーブルで待っていた男は、門崎に会って本当に嬉しそうだった。

 門崎は、まだ三十代前半の若い弁護士で、髪型から服装に至るまで、真面目を絵に描いたような風貌だった。男が握手を求めると、気さくで親身な口調で、その体調を気遣った。男は、城戸を紹介されると、やはり笑顔で恭しく頭を下げた。城戸は、簡単に自己紹介をし、水を持ってきたウェイトレスにコーヒーを注文した。平日の午後だが、店内は中高年の女性客で混んでいた。

 テーブルが落ち着くと、単刀直入に、

「曽根崎さん、……」と男に声を掛け、数秒反応を待った。

 男は、笑顔の名残を湛えたまま、その人がどうかしたのだろうかという表情をしていた。

 城戸は改めて、「曽根崎義彦さん、ご存じですか?」と尋ねた。

「はい。」

「──どういったお知り合いですか?」

「はい。知りません。」

「あ、……ご存じないですか?」

「はい。」

「失礼ですが、……本当は、あなたが曽根崎義彦さんなのではありませんか?」

「私は原誠です。絶対にそうです。」

 城戸の隣で、門崎が、その「絶対に」という言葉に驚いていた。そして、

「ごめんなさいね、原さん、急にヘンなことをお尋ねして、ビックリしますよね。」

 と優しく語りかけた。男は、動揺した様子で、彼女に助けを求めていた。城戸には、やや悪感情を持った様子だった。

「実は、城戸先生が代理人をされてる女性のご主人が亡くなってしまって、……」

 門崎は、要領良くことわけを説明した。

「それで先生は、ひょっとすると、その亡くなった人が、原誠さんなんじゃないかってお考えなんです。」

「すみません、不躾ぶしつけに。そのご夫人は、亡くなった夫の身許がわからずに、とても苦しんでいます。なんとか助けてあげたいのですが。──それで、とある人から、あなたの本名は、実は曽根崎義彦なんじゃないかと伺ったもので、失礼を承知で、質問させていただきました。」

 男は、砂糖とミルクをたっぷりコーヒーに入れ、カップの持ち手を摘まんで、瞳を左右に巡らせた。口がぽかんと開いたまま、言葉が出なかった。

『──この人は本当に、原誠じゃないんだ。……』

 城戸は、今更のようにそう確信して、驚きを抑えられなかった。そして、話せないのは、もしかすると、小見浦に口止めされているからではないかと考えた。秘密を守るように、脅されているのではないだろうか。

「じゃあ、ちょっと、質問を変えますが、小見浦のりさん、ご存じですか?」

「はい。」

「──知ってる?」

 城戸は、その「はい。」が何を意味しているのか、確認するように尋ねた。男は、きっぱりとした態度で、「はい。」とまた言った。

「その小見浦さんが、戸籍の交換を仲介されたんじゃないですか?」

 男は、門崎の方を見て、喉に詰まっている言葉を呑み込むべきか、引っ張り出すべきなのかを無言で尋ねた。

「言ってもらって大丈夫ですよ。その方が、わたしも力になりやすいですし。本当に、原誠さんって名前なんですか?」

「はい。」

「じゃあ、本名は?」

「あの、……私はまた、刑務所に行くことになりますか?」

「ここで伺ったことは絶対に口外しません。」

 城戸は、彼の目を見て言った。男は、躊躇っていたが、やや唐突に、

「自分は本当は、たしろしようぞうと言います。」

 と言った。城戸は、眉根を寄せて、隣で門崎が固唾を呑む気配を感じた。

「それが本名ですか?」

「はい。」

「その名前を、原誠さんと交換したんですか?」

「はい。そうです。戸籍も何もかも全部。」

「どうしてまた? お金ですか?」

「はい。あと、ホームレスだと仕事を探したり、お金を借りたりが難しいですから。」

「そう言われたんですか?」

「はい。」

「それで、原誠さんの戸籍と交換したんですか?」

「はい。」

「原誠さんがどういう方かはご存じでした?」

「はい。」

「本人が説明したんですか?」

「はい。仲介の人が。」

「本人に直接は会ってないんですか?」

「はい。会いました。」

「田代さんと仰いましたよね? 曽根崎義彦さんではなく?」

「はい。その人は知りません。」

「田代」と改めて名乗ったその男は、はっきり首を振った。嘘ではなさそうな感じがした。

 城戸は、〝X〟の写真を取り出して彼に見せた。

「戸籍を交換した原誠さんは、この人ですか?」

 彼は再び、ほとんど自分の矜恃に懸けてといった、一切の曖昧さを残さぬ態度で、こう断言した。

「はい。違います。この人は知りません!」


 そのあと、しばらく三人でケーキを食べながら、田代がどういう人生を歩んできたかを聞いた。中卒で職を転々としたが、どこに行ってもグズだ、のろまだ、と罵られて続かず、十数年前からホームレスになったという。戸籍を交換した際に手にした金額は、手数料を引かれて三万円らしかった。原誠が、小見浦に幾ら払ったかは知らないと言った。

 小林謙吉の子供となることで、却って人生が困難になるとは思わなかったのかと尋ねると、

「はい。けど、苗字も違いますし、私は人に話しませんし。」と言った。

 一時間半ほどで店を出たが、門崎は、城戸と二人だけになってからも、しばらく物も言えない様子だった。

「わたしの今までの支援、……何だったんでしょう? 原さん、──じゃなくて田代さん? あまり事件のことを話したがりませんでしたけど、それも当然だと思って、深く訊かなかったんです。」

「無理もないですよ。」

窃盗症クレプトマニアになったのを、ボクシングのせいと思ったり、お父さんの事件のせいだと思ったり、……でも、そう言われたら、そういう人に見えるんです。彼の目尻のあの皺を見てると、犯罪者の子供として生きるっていうのは、苦労が多いだろうなって、本当にいつも感じてて。」

「まあ、……でも、まったく何もなかった過去ではないでしょう? 表情には、抽象的に孤独や悲哀が滲むだけだから。……」

 城戸は、そう言って門崎を慰めながら、谷口大祐の人生を、自らの苦悩として切々と語った〝X〟のことを考えた。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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