ある男

ある男(27)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 杉野によると、小林謙吉には、誠とまこという名の一人息子がいて、今は離婚した母親の「はら」という姓を名乗っているらしい。つまり、「原誠」が氏名である。

 小林謙吉が、三重県四日市市で事件を起こしたのは、一九八五年のことだった。典型的なギャンブル依存症で、借金で首が回らなくなり、つきあいのあった工務店の社長宅を訪れて、十万円を無心するも断られて逆上。一旦帰宅した後、深夜に強盗に押し入り、社長夫婦と小学六年生の一人息子を文化包丁で刺し殺して、証拠隠滅のために放火したという、残虐な事件だった。

 城戸はやはり、この事件を曖昧にしか記憶していなかったが、偶然にも、その誠という名前の子供は、彼と同じ一九七五年生まれらしかった。

 あの時の同じ小学四年生が父親の殺人事件を経験したのだと思うと、生々しい実感が湧いた。同級生たちの顔がちらつき、彼らと一緒に遊んでいた自分自身が思い出された。

 メディアで大きく報じられ、マスコミが殺到したので、原誠は母親とともにすぐに転居している。その後、彼自身は、一時、前橋市の児童養護施設にいたらしい。そこを出てからの足取りは不明だった。


 原誠の存在が知られるようになったのは、ひょんなことからだった。

 彼は二〇〇六年頃から万引きの常習犯となり、何度も見つかって通報された挙句、二〇〇八年に、到頭、起訴されて窃盗罪で懲役一年、執行猶予三年の判決を受けるに至った。執行猶予期間中にまた万引きで逮捕されて、懲役一年六ヶ月の実刑を科され、更に出所後、間もなく同罪で三度目の有罪判決を受け、今年の初めにようやく刑期を終えている。

 最初の実刑判決が下った後、それを暴露するように、週刊誌の〈事件のその後〉という特集が、加害者家族の例として彼を取り上げた。

 仮名の記事だったが、ネット上の犯罪マニアのサイトには、それ以前から、彼が母親の「原」という姓を名乗っていることが出ていたらしい。城戸も、小林謙吉について検索する途中で、それらしいサイトを覗いてみたが、真偽不明の噂話がごちゃ混ぜになっており、何よりもサイト管理者の悪趣味にへきえきした。ただ、週刊誌の記事の切り抜きが多数貼りつけられていたので、くだんの特集の内容も知ることが出来た。

 原誠の経歴で城戸が驚いたのは、施設を出たあと、しばらく北千住のボクシング・ジムに所属していて、プロボクサーとしてデビューし、一九九七年には、バンタム級の東日本新人王トーナメントで優勝していることだった。城戸は多少、格闘技に詳しいが、これは大したことだった。

 ただ、精神的な問題を抱えていたらしく、全日本新人王決定戦前に突然出場を辞退して失踪。その後、十年間ほどは日雇いの仕事で喰い繋いでいたが、どこに行っても、いつの間にか「殺人犯の子供」という噂が職場に広まり、長続きはしなかった。

 最初に万引きで捕まったのは二〇〇六年で、以後、急速に常習化したらしい。

 件の週刊誌の記事は、原誠の人生を憐れみつつ、犯罪性向はやはり遺伝するのだろうかといった酷い結び方をしていた。

 その後、杉野と一緒に死刑廃止運動に携わっているかどさきという女性の弁護士が、偶然この小林謙吉の子供に関する記事を見て驚き、二度目の実刑判決が出た万引きでは、彼女が弁護を引き受けている。裁判では、原誠の生育歴や通院歴などが強調され、万引きの繰り返しは精神疾患によるものだと主張されたが、判決では考慮されなかった。

 門崎によると、恐らく「窃盗症クレプトマニア」で、再犯の懸念があるため、出所後も医師を紹介し、時折連絡を取っているのだという。


 原誠の写真は、ネットのどこを探してもなかったが、杉野の紹介で、門崎に直接訊いてみたところ、父親の小林謙吉には、まったく似ていないらしかった。

 城戸は、話の流れで、原誠がどこの刑務所にいたのかを電話で尋ねたが、その返答に驚愕した。

「横浜刑務所です。」

「え?……横浜?」

「ええ。城戸先生、お近くですよね?」

「近くですけど、それより、……」

 うらのいる刑務所だった。東京矯正管区内のB指標受刑者のための刑務所というと、そう幾つもあるわけではないので、不思議ではないが。……城戸は、小見浦は、刑務所内で原誠を知っていたのではあるまいかと考えた。そして、これまで自分でも「まさか。」と半信半疑だった憶測が、俄かに真実めいてきたことに却って戸惑いを覚えた。

 城戸は、〝X〟という男は、小林謙吉の息子なのではないかと考えているのだった。つまり、彼こそが本当の原誠であり、万引きの常習犯として逮捕されたのは、小見浦を通じて戸籍の交換をした別人なのではないか、と。

 城戸は、その話を電話で門崎にしたが、彼女は、「──え?」と一言発したきり、絶句した。

「〝X〟っていう人物が、小林謙吉の息子だったとするなら、彼がどうしても自分の過去を変えたがったのもわかります。あんな事件を起こした犯人の息子として生きるのは、……大変でしょう、それは。」

「ちょっと、……えー? 本気ですか?」

「ええ。」

「飛躍しすぎてて、ついて行けないんですけど。」

「まあ、……とにかく、顔がそっくりなんですよ。小林謙吉と〝X〟は。」

「それだけですか?」

「あと、絵が本当に似てるんです。それでハッとしたんです。ああいうところが遺伝するのか。……」

「……微妙ですね。」

「刑務所に入ってた原誠さんは、父親の話、します?」

「いいえ、まったく。」

「ボクシングをやってた頃の話は?」

「それは、少し。殴られすぎて、バカになったって、笑ってましたけど。」

「その人、身長、何センチくらいですか?」

「身長、……170センチちょっとくらいだと思います。」

「大きいですね。……ボクシング、興味あります?」

「いえ、全然。」

「原誠のバンタム級って、体重52、3キロですよ。」

「えー、そんなに軽いんですか。っていうか、わたしより軽い。……」

「〝X〟は、163センチくらいで、身長的にもピッタリなんですよ。」

 門崎は、またしばらく黙って考えていたが、やがて、

「でも、原さんが窃盗症クレプトマニアになってしまったのは、ボクシングの影響かもしれないって、精神科のお医者さんも言ってたんです。もちろん、お父さんのことが大きいでしょうけど。」と言った。

「身許確認はしてないんですか、警察は? 運転免許証とか、そういうのの写真は?」

「免許、持ってないと思います。ホームレスですから。」

「あ、そう、……」

「あの人ちょっと、知的障害があるんです。ボクシングのせいで、計算とか、出来なくなったっていうんですけど、お医者さんは元々じゃないかって。」

「……。」

「〝X〟って人が、もし本物の原誠なら、……でも先生、それって、ヒドくないですか? 自分の過去が嫌だからって、知的障害があるホームレスを欺して、戸籍を交換したってことでしょう?」

「欺してはないんじゃないですか? 原誠が小林謙吉の子供だってことは、その人も自覚してるんでしょう?」

「『はい。』って言うだけで、わかってるかどうか、よくわからないんです。なんでも、『はい。』って言いますから。そういう人に、……やっていいことなんですか?」

「……お金かな。」

「お金かもしれませんけど、絶対、大きな額は渡してないはずです。」

「──でしょうね。……」

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コメント

uni_uni222 面 白 く な っ て ま い り ま し た 7ヶ月前 replyretweetfavorite

shigekey "必ずしも、現状に絶望していなくとも、まったくの別人として生きてみたいというのは、たった一度の人生を運命づけられている人間の、ありきたりな願望ではあるまいか?" |平野啓一郎 @hiranok 7ヶ月前 replyretweetfavorite