ある男

ある男(26)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 一時間のトーク・イヴェントも、残りは十五分ほどだった。

「──えーっと、時間もなくなってきましたので、急いで見ていきましょうか。……こちらのちょっと刺激的な女性のヌードの絵はですね、北九州市で起きた替え玉保険金殺人事件の犯人の一人が描いたものですね。非常に複雑な事件なので、簡単にお話ししますと、北九州にあったスナック経営者Aとその店員Bが、金に困って保険金詐欺を計画します。この二人は、かねづるにしていた某氏と養子縁組をしていて、義兄弟の関係でした。──で、Bに多額の生命保険をかけて、Aを受取人にし、Bの身代わりに、ホームレスの男性に酒を飲ませて溺死させます。替え玉殺人で、生命保険を騙し取ろうとしたんですね。ところが、まあ、この辺がさんなんですが、殺された男性は、Bとは年齢も背格好も全然違ってて、あっさり、警察に見破られてしまうんです。実は、このBという男は、この事件の前にも、強盗殺人と放火を犯していまして、死刑判決となりました。この絵は、そのBが描いたものです。……」

 城戸は、聞くともなく聞いていたが、「替え玉保険金殺人」という通称の意味がようやくわかって、つと話者の方に目を向けた。

『ホームレスは、Bと身許を入れ替えられて、Bとして殺されたのか。……』

 そして、二の腕の辺りに、さっと何かに触れられたように鳥肌が立った。彼は当然に、谷口大祐になりすましていた〝X〟のことを思い出したのだった。

 そして、あっ、と口が開いたが、声にはならなかった。そのまま数秒間、微動だにしなかった。

 城戸が見ていたのは、Bが描いたヌードのイラストではなかった。その隣に展示されている、先ほどの風景画だった。そして、その絵の見覚えに卒然と心づいたのだった。

『──〝X〟の絵に似ている。……』

 城戸は携帯を取り出すと、里枝の実家で撮った〝X〟の遺品の写真を探した。数点、そのスケッチが見つかったが、描かれているのは、まったく違った場所の風景だった。ただ、タッチがそっくりだった。

 城戸の心臓は、彼の胸を内から懸命に叩いて、何かを訴えようとしていた。しかし、次の瞬間には、少し冷静になって、だから何なのだろう、と考えた。

 批評家の解説も、丁度、この風景画に移っていたが、既に二十年も前に刑は執行されているらしく、死刑囚の名前は小林謙吉こばやしけんきちというらしい。小見浦のあのわけのわからないハガキによると、谷口大祐になりすましていた〝X〟は、「曽根崎義彦」という名前のはずだった。

 しかし、なぜそう言えるのだろう?──

 城戸は、眉間を険しく寄せて、少し首を傾げた。彼がそう考えているのは、小見浦が送ってきたあのハガキの女性の胸にそう書かれていたからに過ぎなかった。しかし、右の胸に「谷口大祐」と書かれていて、左の胸に「曾根崎義彦」と書かれていたからといって、二人が戸籍を交換したと、どうして思うのだろうか?

 彼は、乳首の周りに円を描くようにして並んでいたその文字を思い出した。そして、またあの「イケメン弁護士先生の目は節穴ですか? マ・ヌ・ケ!」という言葉のことを考えた。

『──あの男は、なんで俺をマヌケだと言ってるんだろう?……』

 単なる思わせぶりか。それとも、小見浦は、やはり何かを仄めかしているのだろうか?

 彼が、「替え玉保険金殺人」の死刑囚の絵を真似ているのには、何か意味があるのかもしれない。もし彼が、どこかでこの展覧会を見ていたなら、この小林謙吉の絵も知っているのではあるまいか。それを言わんとしているのだろうか? 何を? 小林謙吉はとっくに死んでるじゃないか。……

 城戸は、先走った興奮の空虚な余韻に、独り取り残された。

 拍手の音で、対談が終わったことに気がついた。そのまま引き続き、質疑応答の時間に移った。


 観客は、死刑廃止運動への理解者が大半らしく、質問というより感想が多く語られ、感極まって涙ぐむ者もあった。肝心の質問も、開催に当たっての苦労だとか、今後の展望など、当たり障りのないものが大半で、やや過剰なほど慎重に言葉が選ばれていた。

 やがて、最初から挙手していて、ずっと当てられなかった前方の男性が、「じゃあ、こちらの方で最後の質問とさせていただきます。」と指名された。

「今日は、貴重なお話をありがとうございました。それから、質問の時間を与えて下さって感謝します。ノンフィクション作家の川村修一かわむらしゆういちと言います。犯罪被害者の家族についての本を書いています。」

 城戸は、彼を知らなかったが、白いシャツに紺のセーターを着た、真面目そうな青年だった。丁寧な口調だが、今にも自制を振り切ろうとしているような声が、聴衆を身構えさせた。

「あの、……ちょっと空気読まないこと言いますけど、僕はこの展覧会は、まん的だと思います。正直、ちょっとムカついてもいるんですけど。なんで、これをやる前に犯罪被害者の絵の展覧会をしないんですか? なんで先に、その人たちの心情を理解して、寄り添ってあげようとしないんですか? 死刑囚に、こんな絵を描く才能があったんだって感心する前に、殺された人たちに、どれだけの才能があって、夢があって、どんなに美しい心があったか、そういうことを考えないんですか? その人たちは、殺される前に絵を描いたりする余裕があったんですか? 死刑は残酷だって言いますけど、自業自得じゃないですか! なんで、この人たちにだけ、贅沢に、絵なんか描く自由が許されてるんですか? どんなに自分を表現したいって思っても、その自由を人から奪ってるんですよ、この人たちは! そのことを考えないで、ただ、ここにある絵だけを見て、ああ、死刑囚はかわいそうとか、一面的すぎるんじゃないですか? この人たちが、どれほど残酷な罪を犯してるか、もっとちゃんとした説明も掲示すべきじゃないですか? 殺人事件の中でも、死刑になるのって0.2パーセントとかですよ。情状酌量を超えてるんですよ、この人たちがやったことは! 亡くなった人だけじゃなくて、ご遺族やお友達、愛する人たちが、どれほど苦しんでるか、考えてみないんですか? こういう展覧会は、その人たちの神経を逆撫でしてると思います!──以上です。」

 青年は、打ち震えながら一気にそう語ると、すとんと椅子に座って、マイクをスタッフの方に突き出した。鋭いハウリングが、会場の静寂を切り裂いた。後方から力強く拍手する者もあって、何人かがそちらを振り返った。川村という青年は、急に思い出したようにまた立ち上がると、

「あ、因みに、冤罪で死刑にするのは大問題ですので、僕も反対です。それだけ、つけ加えておきます。」と言って着席した。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

コルク

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