ある男

ある男(24)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 海風の強い日だった。夜の闇にそのシルエットだけを許されている街路樹が、クリスマスのイリュミネーションを煌めかせている。元町の華やぎを尻目に、信号待ちをしていると、見知らぬ男が、なぜかしきりに電柱を蹴り続けている。

 城戸は、それとなく颯太の手を強く握って、その男から数歩、遠ざかった。青になっても、男はその場に留まり続けたので、すぐに姿は見えなくなった。特に何も言わなかったが、颯太も心持ち、早足で歩いていた。

 信号の度に、ビルの谷間から冷たい風が吹きつけてきた。城戸は、コートの前を閉じ合わせながら、繋いだ手から食み出している颯太の指先を気にした。

「さむくない? だいじょうぶ?」

「うん。……ねえ、おとうさん?」

「なに?」

「ウルトラマンって、くちがうごかないのに、なんで、『シュワッチ!』とかいえるの?」

「え? なんでかな。」

 城戸は笑って首を傾げた。颯太は、それがどんなにおかしなことかを、勢い込んで、目を丸くして説明した。

「そうだな。……まあ、でも、ウルトラマンは、とんだり、スペシウムこうせんをはっしゃしたり、いろんなことができるんだから、くちをうごかさずにしゃべることくらい、むずかしくないんじゃないかな。」

 城戸は、我ながら気の利いた答えだと思ったが、颯太はその理屈にまったくピンと来てないようだった。

 帰宅後は、ミートソースのスパゲティと冷凍物のハンバーグを二人で食べた。それから、颯太がテレビを見始める前にソファで膝の上に乗せて、「けさはおとうさんも、おおきなこえをだしてごめんな。」と謝った。

 颯太は、「うん。」と頷いたが、それよりも早くテレビを見たがった。

「あさはおとうさんも、しごとにちこくしそうでいそいでたし、そうただって、こどもえんにちこくしたら、こまるだろう? それでおこっちゃったけど。」

「うん。」

「あしたのあさは──こっちみて──ちゃんと、まにあうようにじゅんびしよう。」

「うん。」

「よし、じゃあ、このはなしはおわりだ。いいよ、テレビみて。」

 そう言って、城戸はもう一度、息子の頭を撫でて、その小さなからだを抱擁した。


 入浴を済ませて子供部屋に行くと、電気を消した真っ暗なベッドで、一緒に横になった城戸に颯太が言った。

「おとうさん。」

「なに?」

「もし、ぼくと、ぼくのニセモノがいたら、ほんもののぼく、わかる?」

「なんだ、それ?」

 颯太は、こども園で読んでもらった『アンパンマン』の絵本の中に、〝ばいきんまん〟が扮した偽物のアンパンマンが登場した話をした。

「あー、そういうことか。……そりゃ、わかるよ。じぶんのこどもだから。」

「どうやってわかるの?」

「みたらわかるよ。あと、こえとか。」

「でも、みためもこえも、まったくおなじだったら?」

「そしたら、……そうだな、おもいでをきいてみるよ。きょねんのなつ、いっしょにいったかぞくりょこうはどこだった?」

「ハワイ!」

「そう。ニセモノは、そとがわだけマネしても、おもいではわからないだろう?」

「そっかあ。おとうさん、すごい! じゃあ、おとうさんのニセモノがいても、おもいでをきいたらいいんだよね?」

「そうだよ。」

「じゃあ、……ハワイにいったとき、おとうさんはこんなおっきな、ぞうりみたいなステーキをたべたでしょうか、たべてないでしょうか?」

「たべた。──まあ、そのききかただと、ニセモノにもわかっちゃうかもしれないけど。……」

 そんな話をしばらくしているうちに、少しずつやりとりが間遠になり、やがて傍らから小さな寝息が聞こえてきた。城戸は、暗がりの中で急速にそれが深まって行くのを待ってから、布団を掛け直し、そっと子供部屋をあとにした。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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