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カリカリカリ、カリカリカリカリカリ……。
四七ソの机に置かれたWindows PCの起動は遅い。決して古いマシンではないのだが、ワケのわからないT社内ネットワークの自動接続設定や、ウィルス対策ソフトや、謎のアドオンのせいで、電源を入れてから立ち上がるまでに十五分もの時間を要する。さらにパスワード3種類の手動入力が都度必要なので、その十五分間は机から離れられない。このパスワードを同じものにして手間を省こうとすると、人事部のパスワードセキュリティ信奉カルトからチェックが入る。
実はこれはクラウド環境だ。クラウド環境の導入で、こういう煩雑さから解放されるかと思ったら、パスワードが増えただけだった。この世界は理不尽に満ちている。
コアタイムの10時まであと5分くらい。室長はまだいない。普通みんな、この時間を使って経費申請とか書類作成をする。だがおれは敢えてコーヒーを飲むべく、給湯ポット席に向かった。
「パスワードがこれだけ増えたら、逆にセキュリティレベルが下がる気がするんだよな」
「同感ですね。モチベも下がります。顔認証と音声認証、早く入れて欲しいですよ」
先にリプトン紅茶を作っていた高橋が、青いセル眼鏡を直しながら言った。
こいつは四七ソで一番ITに詳しい優等生だ。バディは同期の後藤。後藤はウェイ系の運動バカで声がでかく、いつも暑苦しい。一方で高橋はいつもクールで冷静だ。
高橋から賛同を得られると、おれは非常に心強い。
「うちはそういうのの動き鈍いからな。何年後になるやらだぞ」
おれは肩をすくめ、先輩風を吹かせた。
「非効率的ですよね本当に。あ、香田さん、お湯どうぞ」
「どうも」
おれはネスカフェ粒をマグに注いだ。おやつ置き場には、この間助けてやった峰くんから、お礼のひよこが一箱置かれているのが見えた。若いのに渋いチョイスだ。まだ半分ほど残っているが、朝から糖分を摂るのはやめておく。余計な脂肪はウンザリだ。
「ウチの会社、広報アカウントあったっけ?」
「広報?」
「Twitterの。なんか面白い事を言うようなさ」
「ああ……。T社グループ自体のものは無いんじゃないですか? ああいうの、人気ある会社もありますよね」
「ウチが作ったとしたら、どうなるかね」
「ウーン……難しいんじゃないですか。今更感もあるし」高橋は眉根を寄せた。「私は技術畑なので、実際の運用面の機微はちょっと解らないですけど」
「まあ、そうだよな。結局は、ツールなんて使い方次第だよ。使い方次第で、すごい武器にもなるし、爆弾にもなる。でも爆弾になった時のリスクを考えてない奴が多い」
「どうしたんです、急に」
高橋が訝しんだ。おれは詰まった。ちょっと話の規模を拡げ過ぎた。
「いや、今日の朝も、炎上してるTwitter広報アカウントをネットで見かけて、ひどいもんだと思ってさ」
「どこが炎上してたんです?」
「ミニマル製菓のさ……前から人気あったろ。中の人が意外と若いのでは、みたいな。コトリ食品のアカウントとリプライ飛ばし合って、だらだら馴れ合ったりしてたあたりから、絶対何かやらかすだろうなとは思ってたよ」
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