ある男

ある男(22)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 父の享年は六十七と若かったが、それを考えれば、自分はもう、とうに人生の折り返し地点を過ぎている。死を思えば、やはり恐かった。けれども、父も遼も待っていると思うと、その不安が和らぐ感じがした。あんなに小さかった遼でさえ受け容れた死だった。自分が決して、身代わりになってやれなかったあの死。……寂しく待ちくたびれていると思うと、むしろ、早く行ってやりたい気にさえなった。自分の他に、誰が一体、世話をするというのだろう? 必要もなかった治療で、あんなに苦しめてしまったことを、彼女は、遼に謝っていなかった。それだけはどうしてもしたかった。

 子供の死を、過去ではなく、そんなふうに、未来で自分を待ってくれているもののように感じ出したのは、いつ頃からだろう? 遠ざかるのではなく、少しずつ、近づいている。──不幸にして、彼女はそれを信じ込める人間ではなかった。本気なら、あと四十年ほども天国で遼を待たせることになる。そんなことは出来るはずがなかった。それでも、とても真っ当な考えとは思えなかったが、最も愛する人たちが、自分よりも先に死んでくれているというのは、彼女の死の不安をなだめ、孤独な生を支えてさえいるところがあった。

 父が死後の世界で歳を取ってゆく姿は想像できなかった。しかし、遼は? 生きていれば、もう十一歳だった。引っ越しをしたので、保育園の遼の同級生たちが大きくなってゆく姿は、見ずに済んだ。けれども、あのおむつをして、よちよち歩きをしていた子供たちも、あと二年もすれば、制服を着て中学校に通うのだった。

 亡くなって、来年で十年になる。早いな、と里枝は思った。そして、もう一度、心の中で、早いな、と繰り返した。


 城戸から連絡があり、多少の進展はあったようだが、〝X〟の名前は、依然としてわからないままだった。少ない謝金で調査を続けてくれている彼を急かすわけにもいかず、恐らく明るい話ではないであろう真相を知るのは怖かった。が、それでも、夫が一体誰だったのかは知りたかった。彼という存在ばかりではなく、自分自身の過去ももやに霞んだままだった。

 悠人の背中には、「お父さん」の死を曖昧に放置している自分への非難が籠もっていることを、里枝は知っていた。しかし、近頃では、幾分憐れみもあるのか、もう、いつか自室のベッドの上で話した時のように、直接何かを言うことはなくなった。

 冬枯れの桜並木の道に差し掛かると、

「悠人は、さっき家で何の本を読んでたの?」

 と尋ねた。

「……別に。」

「別に、なんて本ないでしょう?」

 里枝は肩をちょんとつついて笑った。

「芥川龍之介の本。」

「好きね、悠人は。お母さんも、昔読んだよ。『トロッコ』とか、『芋粥』とか。」

 悠人は、あまり共感したくなさそうな顔で、下を向いたままだった。

「どんな話?」

「話じゃないよ。詩みたいなの。……」

 続けて、悠人はタイトルを言ったが、里枝には聴き取れなかった。

「ごめん、何?」

「──『浅草公園』。」

「へー、……それ、芥川龍之介なの?」

「そう。」

「どんな話?」

 悠人は面倒くさそうに首を傾げた。

「教えてよ、お母さんにも。」

「……造花屋さんの前を通ったら、鬼百合が話しかけてくるんだよ。『わたしの美しさを御覧なさい。』って。そしたら、主人公が、『だってお前は造花じゃないか?』って言い返すの。……」

「何それ? ヘンなの。」里枝は失笑した。「それが面白いの、悠人は?」

「……うん。でも、難しい。」

「段々、お母さんにもわからないこと、考えるようになるのね。読み終わったら、貸して。」

「だめ。」

「どうして?」

「線とか引いてるし。……」

 里枝は、息子の横顔を愛おしげに見つめて微笑んだ。

「そっか。じゃあ、お母さんも自分で買って読もうかな。」

「……お母さんが読んでも、多分、面白くないと思う。」

「コラッ。失礼ねえ?」

 悠人は、やっと少し笑った。

「面白くなくても、悠人がどんなことに興味持ってるのか、知りたいから。」

「いいよ、知らなくても。」

「じゃあ、悠人と関係なく、勝手に読むから。」

「もう、いいんだよ、僕の本のことは。」

 悠人は、頭を掻きながら、母親の干渉を振り解こうとするような身振りをした。そして、妹と祖母が、後ろの方で道端の何かを見ているのを確認すると、

「お父さんの木、覚えてる、お母さん?」と振り返った。

「覚えてるよ。あれでしょう? ここから三番目の、枝がこうなってる、……」

 悠人が言っているのは、母が「後のお父さん」と再婚した後、ここに来て、みんなで自分の木を決めようと提案し、それぞれに好きな桜を一本選んだことだった。

 里枝の木は、もっと先の方にあった。悠人の選んだ木は、父の木の二つ隣に立っていた。花はまだ里枝のおなかの中にいたので、悠人が代わりに選んでやった。ふしぎなことに、一度そう決めると、次にここを訪れた時には、もうその木は、他の木とは決して同じではない、特別な愛着の対象となっていた。

 それから、春になる度に、ここで誰の木が一番立派に花を咲かせているかを比べるのが恒例になった。父が亡くなった翌年の春には、前年には父の木に見劣りした悠人の木が、家族の木の中でも特に見事だった。悠人はそのことを墓前で伝えたいと思ったまま、それが叶わなかったのだった。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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