ある男

ある男(21)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 十月最後の日曜日、里枝は、母とゆう、それに花と連れ立って、例年よりも少し早目の満開を迎えているというコスモスを見に、車で郊外の古墳群公園まで出かけた。

 花はいつも、その公園を「はなちゃんのこうえん」と呼んでいるので、喜んでついてきた。

 悠人は、このところ、ますます部屋に籠もりがちになっていて、最初は、本を読みたいからと外出を渋っていた。

 里枝は、自分自身が本を読むようになったのは、もっとずっと大人になってからで、結局それほど多読でもないので、悠人の降って湧いたような読書意欲に驚いていた。しかも、図書館から借りてくるのは、夏目漱石や志賀直哉、武者小路実篤といった古い文学作品ばかりである。特に芥川龍之介が好きらしく、文庫本を買って、暇さえあればページを捲っていた。「面白いの?」と訊くと、「面白いよ。」とだけ答えた。去年の今頃は、ゲームのしすぎを注意していたが、このところは見向きもしなくなっていた。

 昼食後、二階に上がってなかなか下りてこなかったが、最後は、祖母に誘われて大人しく従った。

 悠人は、特段、里枝が言い聞かせたわけでもなかったが、祖父母のことは昔から敬っていた。反抗的な態度を見たためしがなく、母親に言われて不満なことも、祖母に言われると聞く耳を持つのだった。尤も、里枝の母親も、不幸続きの孫がかわいそうで仕方がなく、よくかわいがって、お菓子でもおもちゃでも、買いすぎなほど買ってやっていたが。

 家の玄関には、金魚の水槽があるが、これにはちょっとした逸話があり、祖父の死後、一周忌を経て里枝が再婚した頃に、悠人が祖母と二人でペットショップに買いに行ったのだった。

 里枝も死んだ夫も、この計画については何も知らなかったので、仕事先から帰宅して目を丸くした。

「どうしたの? 金魚飼いたかったの?」

 と尋ねると、悠人は、

「おじいちゃんが死んで、おばあちゃん、ずっと寂しそうだったから。」

 と理由を説明した。それは里枝が子供の頃に金魚を飼っていた水槽だったが、全滅して以来、もう三十年以上も納屋でほこりを被ったままになっていた。

「じゃあ、おばあちゃんのために買いに行ったの?」

「うん。……気が紛れるかなと思って。」

「なんで金魚なの?」

「おばあちゃんが、納屋で水槽を見てたから。金魚くらいなら、いいでしょう? 僕、世話するから。」

 里枝は、悠人の優しい気持ちに心を打たれた。亡くなった夫も、「悠人は、思いやりのある良い子に育ってるよ。」と、目を細めていた。

 悠人の真意は、祖母には伝えていないらしかったので、夜、子供たちが寝たあとに里枝は母親と話をした。

 いつ相談したのかと尋ねると、里枝は母から意外なことを聞かされた。

「じいちゃんが死んで、悠君もずっと、寂しそうやったかいね。」

 里枝は思わず笑って、

「じゃあ、お母さんが金魚を飼いたかったんじゃないの?」

 と聞き返した。里枝の母親は、何がおかしいのだろうと怪訝そうに、

「悠君のためやが。」

 と言った。

「悠人もまったく同じこと言ってたよ。」

「え?」

 里枝が説明すると、母は呆気にとられたような顔をしていたが、やがて娘と一緒に笑い、仕舞いには感動して涙ぐんだ。

 悠人は、祖母の捜し物を納屋で手伝っていた時に、一緒にこの水槽を見つけたらしかった。そして、ホースの水で水槽を洗い、インターネットで砂利やエアポンプなど、必要なものを調べて祖母と一緒に買いに行き、設置も自分でやったらしかった。

 里枝は、自分の知らないところで、母と息子が心を通い合わせていたことに、嬉しくなった。自分の愛する者同士が愛し合う。しかも、自分が仲介する必要もなく。それは、ふしぎな喜びであって、どんな話をしているのだろうと想像するだけでも、胸の内に、少しくすぐったいような温もりが膨らんだ。

 しかも、二人は共に哀しみ、共に孤独でありながら、相手の傷を思いやり、相手の寂しさを癒やしてやろうとしていたのだった。

 悠人は飽きっぽい性格で、何かに熱中したかと思うと、急に関心を失ってしまうようなところがあったが、この金魚の世話だけは決して欠かすことなく、今に至るまで家族の手を煩わせたことは一度もなかった。それは、「後のお父さん」が亡くなった時でさえ変わらなかった。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

コルク

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