ある男

ある男(19)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 里枝から依頼を受けて以来、既に十ヶ月以上が経過していたが、城戸の〝X〟の身許調査は、完全に行き詰まっていた。美涼たちがやっているフェイスブックの偽アカウントの方も、あまり期待できそうになかった。彼自身が、長時間労働の過労死事件の訴訟など、このところ多忙で、気にはなっているものの、里枝の戸籍訂正の手続きが完了したところで、一段落ついて、先に進みあぐねていた。

 そんな矢先に、ひょっとすると、という手懸かりらしきものに逢着したのは、事務所で交わした中北との雑談がきっかけだった。

 中北は、東北の被災者支援を続ける中で、津波の被害者の中に、戸籍を持たないために存在を行政から把握されていない人がいるという相談を受けていた。

 第二次大戦の頃は、空襲で役所の戸籍簿が燃え、そのあと、本人の届け出がなく、無戸籍になってしまった人がいたが、今は本籍地の役所に戸籍の正本があるだけでなく、管轄法務局か、地方法務局に副本もあるので、震災で戸籍簿そのものが喪失するというトラブルはなかった。電子データ化も進んでいる。しかし、中北が耳にしたのは、所謂〝三百日問題〟で無戸籍だった子供だった。

 民法では、離婚後、三百日以内に生まれた子供は、前夫の子供と推定されてしまうので、酷いDVを受けて離婚した女性などが、別の相手とすぐに子供を儲けても出生届を出さず、結果、無戸籍のまま社会に存在している人のことが、近年問題になっている。日本国籍の取得の条件は揃っていても、国家は、その子供たちの生存を捕捉しておらず、従って、津波に飲まれたその死も把握できていないというのである。公文書上は、その子の誕生と死という出来事は、なかったことになっている。──「なかった」という言葉が宛てにしている、一旦は存在したはずの何かさえなく、とにかく、最初から何も起こらず、無が完全に蓋をしているのだった。

 城戸は、〝X〟は無戸籍者だったのではないかと、話を聴きながら考えた。中北も、それを示唆したかったのだった。

 もし谷口大祐が無事なら、恐らく今は、交換した〝X〟の戸籍を生きているのではと城戸は想像していた。しかし、〝X〟が無戸籍だったとすると、今は谷口大祐が無戸籍になっているということか? 城戸は、恭一が疑っている谷口大祐の殺害について考えた。もし、谷口大祐が公文書上のどこにも存在しない人間になっているなら、彼が殺されたとしても、国家はそれを認識できない。死体が見つかったとしても、身元不明として処理されるだろう。生前の知人や友人が証言し、DNA鑑定を行い、写真や遺品といった物証が残っていれば、彼が存在したらしいことは推定されるが、津波の場合はそれらが根こそぎ失われて、状況が著しく困難になっていた。

 いずれにせよ、城戸はこれまでさほど悲観していなかった谷口大祐の生存に関して、嫌な予感を抱いた。里枝のためにも、〝X〟が殺人を犯していたなどとは考えたくなかった。もしそうだったなら、今でも紙一重のところでどうにか人生を維持している彼女は、もうたないんじゃないかという気がした。──

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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