昼食は、駅に隣接するビルに入っている、モン・サン=ミッシェルの有名なレストランで、これ以上、泡立てようがないというほど膨れあがったオムレツを食べた。
展覧会の感想を語って、二人とも全体に低調だったと苦笑した。美涼は、つまらない展覧会に誘って申し訳なかったと謝ったが、城戸は首を振って、《三歳の記憶》は面白かった、と言った。
「ねー、本当に。半日くらい、ぼんやり過ごせそう。──でも、あのキッチンのお母さんの背中が寂しそうだった。……あれなんでしょう、本当に表現したかったのは。」
「ああ、……そっか。あれだけ不器用で、人物が苦手なのかなとか思ってたんですけど、そうかもしれない。上手く表現できない理由があるんでしょうね。……」
城戸は、自分にはまったく見えてなかったものを見ていた美涼の眼差しに感心した。
「親子関係に悩んでたみたいですよ、解説読んだら。」
「見逃してた。……でも確かに、幸福な幼少期を過ごした人には、堪らない郷愁の体験になるでしょうけど、そうじゃない人は辛いでしょうね、あの空間は。」
美涼は同意するように微笑して、「城戸さんは?」という目をした。答えても答えなくてもどちらでも受け容れられそうな表情だった。
「僕は多分、幸せな家庭の方だったと思います。両親とも、弟とも仲が良かったし。」
「そんな感じがします。」
「そうですか?」
「うん。──うちも、いい意味で平凡だったなあ。」
「ただ、僕は在日三世なんですよ。高校生の時に帰化してるから、もう日本国籍ですけど。だから、室内の風景がちょっと違うんですよね、あの当時の日本の典型的な家庭とは。ハングルの書があったり、チョゴリで記念撮影をした祖母や母の写真があったりとか。まあ、多少ですけど。……あの作品は、海外では多分、それぞれの国の人が、自分の幼少の頃の記憶に変換して楽しむんでしょうけど、日本国内だと、〝普通の家庭〟の見せ方がちょっと批評の対象になるかもしれないですね。色んなルーツの国の人が増えてきてるし、経済的な格差も広がってるし。──いや、むしろそのこと自体を考えさせる作品なのかな。……」
城戸は、初対面の時には、あれほど警戒していた自らの出所を、いともあっさりと口にした。そして、そのことを、語りながら少し遅れて意識した。
恐らく、美術作品に触れたあとのせいで、同時に、この数ヶ月の間に、美涼のものの感じ方、考え方を見てきたからだった。
美涼は、特に驚くような顔はしなかったが、自分のこれまでの言動を振り返っている風の目をした。
「なるほどねー。そういうこと、考えてなかったな。もう一遍見たいかも。」
「僕もさっきの美涼さんの感想で、また行きたくなりましたよ。」
「一緒に戻りますか、このあと?」
美涼は笑って、冗談だという顔をした。そして、心配そうな顔で、
「前に会った時のサニーでの会話、不愉快だったでしょう?」
と言った。
「全然。」と城戸は肩を窄めた。「拉致問題の話でしょう? だって、事実だから。──まあ、マスターは、拘ってましたけど。」
「それだけじゃなくて、……」と美涼は続きを躊躇った。「マスターは、中国人とか、韓国人とかに、偏見があるんですよね。なんか、染みついてるっていうか。」
「あんなにブラック・ミュージックのファンなのに。差別に敏感になったりしないのかな?」
「それは、結びついてないんですよ。差別してるとも多分、思ってないから。」
城戸は、あまり愉快な話題でもないので、相槌で適当に切り上げると、「……彼は美涼さんの……」と尋ねかけた。
美涼は、最後まで聞く前に、口をへの字にして、
「よく言われるんですけど、そういうんじゃないんです。」
と否定した。
城戸は敢えて、でも、彼は気があるでしょう? と、余計なことは言わなかった。その間の悪い沈黙のせいで、美涼は、元の会話に後戻りした。蒸し返すと言うより、自分の立場をはっきりさせたがっている様子だった。
「最近のヘイトスピーチとか、最低ですよね。なんかもう、気持ち悪すぎて。」
城戸は、大変ですね、という他人事めいた同情の仕方ではない、彼女自身の唾棄するような口調に、無意識裡に残っていた強ばりが解けるのを感じた。
「正直、あそこまで行くと、傷つくとか腹が立つとかって感じでもないですよ。死ね! とか、ゴキブリとか、そういうレベルになると、……疲れますけど。」
気の抜けた炭酸水のボトルのキャップを回した時のような、力ない笑いが漏れた。
「なんでこうなっちゃってるんですか? 数年前までは、あり得ないことだったでしょう?」
「まあ、ネットの底の方に沈殿してた言葉が、攪拌されてますよね。」
「法律で取り締まれないんですか?」
「そういう動きは出てきてますけど、表現の自由との兼ね合いで、法曹界でも意見は割れてます。──僕は、ヘイトスピーチの定義を明確にした上で、やっぱり規制すべきだと思います。……ただ、何て言うのかな、僕はこの問題にコミットしたくないんですよ。そりゃ、ああいう連中のことは軽蔑してるし、いなくなってくれれば、僕の人生のストレスも、多少は減りますよ。でも、……多少ですよ。僕の人生には、他にもっと考えるべき重要なことがたくさんあるんです。今やってる裁判のこと、家庭のこと、特に子供のこと、……それに、……」
城戸は、美涼の顔を見つめた。今こうして、彼女と過ごしている時間こそ、どれほど重要かしれないと、勢い口にしそうになったが、口説き文句のようなその言葉を慎んだ。
彼は、皿の上のいかにも健康的に膨れあがったオムレツに手を着けた。ほどよく焼き色がついていて、二つ折りにされたその合わせ目からは、泡立った卵がほとんど敗北感を抱かせるほど傲岸に溢れ出している。海に向かって迫り来る溶岩のような趣だった。
「……とにかく、色々ですよ。もっと、真面目に悩んだり、傷ついたりするに値するようなことが山ほどあるんです。もちろん、楽しいこと、嬉しいことも。……僕は、コリアン・タウンでもない、普通の町で、日本人と同じように育ってきたから、いじめられた経験もないし。自分の出自を、最近まで、スティグマとしても大して意識してなかったんです。」
「……スティグマって、何でしたっけ?」
「ああ、スティグマって、人の差別や悪感情や攻撃の材料にされるような特徴のことですよ。それ自体は別に悪いことじゃないにしても。例えば、顔のあざとか、犯罪歴とか、生まれ育ちとか。」
「それがスティグマですか?」
「そう。そういうのが強調されると、その人の持ってる他の色んな面が無視されちゃうでしょう? 人間は、本来は多面的なのに、在日って出自がスティグマ化されると、もう何でもかんでもそれですよ。悪い意味だけじゃなくて、正直僕は、在日の同胞に、俺たち在日だしなって肩を組まれるのも好きじゃないんです。それは、俺たち石川県人だもんな、でも同じですよ。〝加賀乞食〟なんて、自虐ネタをフラれても、そういうところがある気がしないでもないけど、何かにつけて言われるとね。……弁護士だろう、とか、日本人だろう、とか、何でもそうですよ。アイデンティティを一つの何かに括りつけられて、そこを他人に握り締められるってのは、堪らないですよ。」
「本当にそう! それを、わたしもいつも言ってるんですよ!」
美涼は身を仰け反らせ、今度は背もたれの反動で身を乗り出しながら、目を輝かせて共感した。
「美涼さんは、実践してますよ、僕よりも。フリーランスで働いて、夜はバーでカクテル作って。」
「わたしの人生のモットーは、〝三勝四敗主義〟なんです!」
「何ですか、それ?」
「人生、良いことだらけじゃないから、いつも〝三勝四敗〟くらいでいいかなって思ってるんです。」
「四勝三敗でしょう? 三勝四敗だと負け越してるよ。」
城戸は、単純な言い間違えだろうと訂正したが、美涼は首を振った。
「ううん、三勝四敗でいいんです。わたし、こう見えても、ものすごい悲観主義者なんです。──真の悲観主義者は明るい!っていうのが、わたしの持論なんです。そもそも、良いことを全然期待してないから、ちょっと良いことがあるだけで、すごく嬉しいんですよ。」
美涼は笑って、得意げに自説を開陳した。城戸はその言葉に虚を突かれたような感じがした。そして、自分の中に、新しい視界が開いてゆくような一種の感銘を覚えた。
「なるほど。……」
「ダイスケが急にいなくなっちゃったのもそうだし、ツイてないんですよ、大体、わたし。だから、本当は二勝四敗くらいでも平気なんですけど、目標は高く、〝三勝四敗主義〟で。」
「いい考えですね。」
「でしょう?」
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