ある男

ある男(17)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 十月に入ると、城戸の許に、思いがけずすずから連絡があった。

 みなとみらいの横浜美術館で開催されている《21世紀の新しいヴィジョン》展に行くので、時間があったら一緒にどうか、という誘いだった。谷口大祐探しの相談もしたいというので、城戸は、スケジュールを調整して、展示をみたあとで昼食を共にすることにした。

 美涼の近況は、インスタグラムと連動した彼女のフェイスブックを見ているので、凡そおおよのところは知っていた。

 投稿頻度は、さほど多くなかったが、食べて美味しかったケーキにせよ、ショーウィンドーの秋冬物を着たマネキンにせよ、日常のさりげない風景の写真の撮り方が上手く、添えられているコメントも、さっぱりしていて彼女らしかった。一人でよく映画を見に行ったり、美術館に足を運んだりしているようで、自撮りは少なく、時折、友人が撮った写真にタグ付けされて上がってくる程度だった。

 明るい昼間の姿を見ていても、美涼の「美味いウォッカ・ギムレットを作る人」という印象は変わらなかった。

 コメント欄では、仕事の関係者や友人たちが、気楽なやりとりを交わしていた。何かにつけて彼女の「美しさ」を褒めそやす、ファンのような男もいた。

 サニーのマスターも、よく顔を出していて、「酔っ払い」たちに囲まれて、一緒に笑っている写真も数枚あった。

 城戸も、ほとんど彼女と連絡を取るためだけにフェイスブックのアカウントを取得していたが、熱心ではなく、人の投稿をシェアしたり、宮崎出張の写真を数点、アップしたりする程度だった。友人にも知らせていなかったので、閑散としていたが、美涼は、新規の投稿をすると、必ずと言って良いほど、〈いいね!〉というボタンを押してくれた。城戸は、それがフェイスブックの礼儀作法なのだろうかと思っていたが、他の〈友達〉は必ずしもそうでもなく、美涼も誰彼構わず〈いいね!〉を押しているわけではなさそうだった。城戸は、お返しに自分でも美涼の投稿に〈いいね!〉を押しながら、何のしるしなのかわからない、そのささやかなやりとりに少しく胸が躍った。


 しかし、この二ヶ月ほどの間、彼らのフェイスブック上の交流は、いささか込み入ったものとなっていた。というのも、美涼は、谷口大祐を探すために、彼の名前で勝手にアカウントを取得し、彼になりすました投稿をしていたからだった。谷口大祐本人が目にすれば、きっと連絡してくるはずだというのだったが、城戸は流石に、その方法に感心しなかった。発案したのは、美涼ではなく、谷口恭一らしい。

 恭一は、行方不明の弟の捜索を、警察が完全に放棄していることに憤慨していた。つまり、憤慨できるほどに、彼はこれが事件化される可能性のないことに、ひとまず安心したのだった。失踪は、身内にとっては一大事だが、警察にとっては、「よくあること」だった。そして、大騒ぎになる懸念がなくなり、城戸から、戸籍上も弟はまだ生きていて、里枝との婚姻も無効になったことを伝えられると、あとはもう、家族の問題として内々に処理したいと考えるようになっていた。警察に憤慨していたのは、どちらかというと、対応した刑事が横柄で、それを根に持っていたせいだった。

 恭一は、弟はやはり、殺害されているのではないかと疑っていた。城戸がゲンナリしたのは、ネットで調べたらしく、彼の口からも、北朝鮮の工作員による「はいり」という言葉が聞かれたことだった。城戸が否定的な反応を示すと、あまりそれには拘らなかったが、いずれにせよ、殺されているならば、純粋な被害というより、何かしら、世間の同情を拒むような後ろ暗い背景があるのではと、恭一は勘繰っていた。あの弟のことだけに。──それを考え出すと、不安でならない様子だった。

「震災の時でさえ、何も言ってこなかったんですよ。おかしくないですか? 生きてたら、電話くらいは寄越すでしょう? それか、生きてても、合わせる顔がないような酷い生活をしてるか。」

 弟探しはとんだやぶへびになりかねないと、恭一はすっかり消極的になっていた。ところが、思いがけず、彼の──彼らの──母親が涙ながらにそれを責め、死ぬ前にどうしてももう一度、大祐に会いたいと、捜索を迫ったらしかった。

 谷口大祐の戸籍の附票には、宮崎県S市に転居してくる以前の、大阪市北区のアパートの住所が残されていた。淀川沿いの築四十五年の古い物件で、家賃は三万八千円だった。アパートの所有者は、近くに事務所を構える工務店になっている。

 城戸は、里枝とも話し合って、三人で一緒にそのアパートの所有者を訪ねてはどうかと提案していた。が、里枝からの返事に時間を要している間に、恭一は、一人でさっさと工務店の社長と面会してきたらしかった。


 恭一からの報告はこうだった。

 工務店の社長は、弟が行方不明だという恭一の話に同情した。そして、大祐の写真をしげしげと見つめて、確かに、住んでいたのはこの人だったと言った。恭一は念のために〝X〟の写真も見せたが、こちらは見覚えがないと首を横に振った。

 大阪のアパートに居た頃までは、大祐は大祐のままだったらしい。このあと、どこかで〝X〟と出会い、名前から戸籍から一切合切を奪われてしまったのだろう。

 恭一は、こんな簡単なことさえ警察が調べないことに改めて憤慨した。

 彼は続けて、当時の契約書や退居時の書類に、大祐の電話番号や転居先の住所が載っていれば教えてほしいと頼んだが、その途端に、それまで協力的だった工務店の社長は、ハッとしたような顔つきになった。そして、「ああ、……まだあったかな、書類? 探してみますわ。」と返事を濁した。

 恐らくは、何か厄介な話なのではと警戒したのだろう。無理もなかった。その後、社長からは連絡がないのだという。


 城戸は、仕事のついでと言いながら、恭一がともかく、自分で大阪まで足を運んだことは理解できた。しかし、彼が美涼に弟のフェイスブックのアカウントを取得させた意図はよくわからなかった。どう見ても、大祐になりすまして美涼が投稿し続けていることは奇妙だったし、効果があるとも思えなかった。

 しかし、〈友達〉として、恭一と美涼、それに、美涼がなりすましている「谷口大祐」のやりとりを見ているうちに、城戸は段々、恭一が何を考えているのか察しがついてきた。そして、つくづくつきあいきれないものを感じた。

「谷口大祐」のページには、美涼と恭一が持っていた旧い写真が何点かアップされていた。出身校や出身地が基本情報として挙げられていて、マイケル・シェンカーと彼が在籍していたスコーピオンズ、UFOのページに〈いいね!〉が押してあった。美涼によると、大祐は、特にUFOのファンだったそうだが、公式ページのフォロワーは二十五万人もいて、検索も出来ないので、たとえ彼がそのフォロワーの一人だったとしても、探し出すことは容易ではなかった。

「谷口大祐」という名前の人物は、フェイスブックに限らず、ツイッターやインスタグラムなどのSNS上に数名存在しているが、どれも無関係な人間のようだった。〝X〟との間でどういうやりとりが交わされているのかはわからないが、生きているとしても、そもそも、本名では登録していないのではないか。或いは、〝X〟と本名を交換しているのか。

 もし、谷口大祐が生きていて、美涼の作った偽のアカウントを目にしたなら、確かにギョッとするに違いない。〝X〟だと思うのだろうか? しかし、「谷口大祐」になりすましていた〝X〟は、恐らく美涼の存在を知らないのではないか? 谷口大祐は、偽物の自分が、かつての恋人と親しげに言葉を交わしているのを見れば、さすがに心中穏やかではないだろう。そうすると、コンタクトを取ってくるだろうか?

 ともかく、この偽アカウント上の会話を眺めていてわかったのは、恭一が美涼に好意を抱いているらしいということだった。それも、今に始まったことではなく、兄弟の間には、どうも彼女を巡る昔からの因縁があるらしい。大方、恭一も美涼を愛していたが、彼女は弟を選んだ、といった話ではあるまいか。特に訊かなかったが、メッセンジャーでの直接のやりとりもある様子だった。

 美涼がなりすます「谷口大祐」は、今も健康で明るく、気弱だが負けず嫌いで、優しく、昔と同じように、UFOの〈Love to Love〉という曲を聴いて「泣いてしまった」りしていた。それは言わば、彼女の願望であり、実際には他に想像のしようがないのだった。

 大祐の記憶と戯れながら、彼女は自分自身の過去をも懐かしんでいた。思い出と一体化することは、つまり、彼への愛に改めて触れ、その指先をじっと見つめることだった。

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文藝春秋
2018-09-28

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