電気サーカス 第96回

真赤から別れを切り出されて茫然自失になった“僕”は、彼女の自宅を訪ねてしまい、家族や友人たちを巻き込む騒ぎを起こす。一時は自殺を試みるほどひどく落ち込んだ“僕”だったが、働く気力が出て来るまで回復。以前の職場に復帰が決まった。

 通勤のピークタイムを過ぎた電車の中は閑散としている。ゆったりとした姿勢で座席に腰掛けると、差し込む太陽の光が後頭部と肩を温めた。
 高いビルが建ち並ぶ間に敷かれた線路を、電車は縫うように走って行く。家で調べた通りならば、目的の駅につくまで一時間と十分。以前花園シャトーから通っていた時は三十分も掛からなかったのを思うと随分と遠くなったものだ。
 これから毎日、この時間を通勤のためだけに使うのだと考えると気が重い。しかし、この仕事で得られる収入と、他の平均的な職場のそれとの差を考えれば、十分に採算はとれている。そう考えて自分の感情を押しつぶす。
 こんな自己操縦はいやだなあ。どうも、金によって人間本来の自由性を飼い慣らそうという不潔な試みであると感じてしまう。しかしそれが、僕に欠けていたものなのだろう。結局のところ、自由は何も生まなかった。
 そして目的の駅に到着した。僕が乗っていた電車はそのまま線路を走って、いずれはあの懐かしい街も通過するのだろう。花園シャトーがあった、みんなで住んでいた街を。
 およそ二年ぶりとなるその駅の構内の様子は、僕が毎日通勤していたころと何も変わらない。エスカレーターを使い、売店の前を通ると、当時の感情が鮮明に蘇る。あの頃僕はガヤガヤとした部屋で真赤と暮らし、朝から晩まで脳に薬を効かせ、生活と労働とで疲労困憊した毎日を送っていた。そして、常にドロドロとして熱い何かを感じながらこの改札を行き来していた。それに比べていまの僕の心境は、とても静かで平和だ。状況が良くなったというわけでもないのに。
 隔世の感を覚えつつ僕は改札を通り抜け、階段を上り、懐かしいビルの前に立つ。そして、いつかやったようにビルのガラスで髪型とネクタイを整えると、これから自分はあのオフィスに舞い戻るのだという実感が否が応にも押し寄せて、俄に緊張をしてきた。
 一方的な告知で職場を去ったこの僕が、すんなり受け入れられると考えるのは虫が良すぎるだろう。当時の同僚は、無責任なやつだと、快くは思っていないはずだ。面倒くさいが、それらは全て僕の自業自得なのだから仕方がない。まずは、そういった逆風を全て受け止めきったところから、再出発をしなくては。かえって責任が取れて良かったじゃないか。ずっと、気にしていたんだ。みんな良い人だったから。
 しばらく頑張れば、きっと以前のような信頼を取り戻すことが出来るだろう。そうしたら、また以前のように、彼らの月給よりも遥かに多額の給金を受けとるのだ。そのためには、まず意欲を鉄のように固めて精神を表面を覆わなくてはならない。
「よし」
 小さく呟いて気合いを入れると、僕はロビーへ足を踏み入れた。
 エレベーターを会社の階で降りる。社員達は外に出払っている時間で、フロアはひっそりとしていた。左手の奥にある喫煙所をふと覗いてみても誰もいない。かわりに、性能のよさげな空気清浄機が静かに作動しているだけだった。前に僕がいた時はなかった。新調したのだろう。
 懐かしい社名のプレートが貼り付けてあるドアを開け、事務所に入る。以前と変わらぬレイアウトで長机が並べられており、右手の方では二人の社員がA4モノクロレーザープリンターを前に格闘している。
上着を脱いでワイシャツ姿になり、袖を肘まで捲り、カバーの外れたプリンターを、それより分解する手順に不安があるのか、あちこちからのぞき込んでいる。二人とも僕よりもだいぶ年上に見えたが、あの機械のあの段階で苦戦しているということは、まだ入社したばかりなのだろう。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

週刊アスキー

この連載について

初回を読む
電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード