■2 第三種接近遭遇
◆マルチタスクの異能の王
五月の連休明けに、枝折(しおり)の仕事は本格的に始まった。
電子書籍編集部には、枝折を除いて八人の人員がいる。編集長の岩田を含めて編集が四人で、宣伝や経理の担当が四人だ。
ただし、編集と営業は他の部署ほど固定的ではない。職域をまたがって互いの仕事を助け合っている。九人目の枝折は、遊撃隊のように編集も宣伝もこなすことになった。
最初の一ヶ月を乗り切ったことで、この部署の仕事のサイクルが分かった。それは、日と週と月の三つの輪で回っている。
まず、日々のスケジュールだが、これは流動的だ。電子書籍のデータの確認、電子書店とのやり取り、その合間を縫い、作家と会い電子版の許諾を取っていく。
交渉を実際にしてみることで、紙と電子の編集部の連携が、いかに取れていないのかよく分かった。
紙の本を出す際に、電子の許諾をきちんと取ってくれれば、自分たちの仕事は大幅に減る。しかし現実は違った。紙の本の担当者は、紙の本の打ち合わせだけをして、電子の話をしないことが多い。出版直前になって、初めて電子版の契約書を送りつける始末だ。
そのため契約を保留する人が出る。そうなれば電子版を出せないまま発売日が近づき、電子の人間が奔走することになる。いわば、紙の編集部の尻拭いをさせられているというわけだ。
もちろん電子書籍の登場以前に出た本については、枝折たちがやるべき仕事だ。だが、新刊の許諾漏れほど腹立たしいことはない。
二つ目の週のサイクルは、月曜日の十三時半からおこなう会議に集約される。
会議では部署の全員が参加して情報を交換する。また、電子書籍の企画も検討される。毎回提出される企画書は七から八本。一人一本程度出している計算になる。そして岩田が認めれば、企画は本人の手でスタートする。
出版社の編集者は、会社の看板を借りた個人経営とよく言われる。それぞれが企画を立て、作家と交渉して本を作っていく。そのやり方は電子書籍も同じだ。
三つ目の月のサイクルだが、こちらは外部との会議が主になる。各電子書店との打ち合わせが、月の終盤に入ってくる。毎月一度の定例会を各社に対して設けており、先方から担当が来て、打ち合わせをおこなう。
この定例会には、枝折はまだ参加したことがない。ゴールデンウィークまで、少しの例外を除いて、データばかりを見て過ごしてきたからだ。
定例会の相手として最も大きな存在はアマゾンだ。取引額は全体の六割弱。その他上位の取引先には、Koboを擁する楽天、iBooksのアップル、ソニー・リーダーのソニーがある。
また、写真集に強いDMM.com、販売力のあるAUやドコモといった携帯事業者の電子書店もある。さらにはKADOKAWAが運営するBOOK☆WALKERや、携帯電話時代から続く電子書店も存在する。
マーケットには大小様々な販売チャネルがあり、一社独占からはほど遠い状態だ。また、小さすぎるところは電子取次を通して、まとめてやり取りしている。
定例会の時に話し合う内容は、主に新刊のスケジュールだ。他には、クーポンやポイントバックについても話を詰める。
電子書店は紙の書店と違い、フットワークが軽い。彼らは在庫を持たず、補充も必要ない。そのため世の中の動きに応じて、機敏に顧客に販促をおこなう。
大河ドラマやオリンピックという、時期が決まった大型イベントだけでない。日々のニュースに連動した本の紹介も可能になる。そうした情報を提供するのも、電子書籍編集部の仕事である。
電子書籍のビジネス速度は、紙のそれとは著しく異なる。電子書籍編集部で働き始めて以来、紙の本を印刷して、書店まで届けて、そこに顧客が足を運ぶというやり方は、前時代的だと感じるようになった。
「春日さんは仕事の飲み込みが早いわね。あと数ヶ月経てば完全に馴染んで、この部署の妖怪のような存在になれるわよ」
隣の席に座る教育係の服部が、自信ありげに言った。
それは困る。そもそも妖怪になるまで、ここにいるつもりはない。給料をもらっているから真面目に働くが、自分がやりたいのは紙の本を作ることだ。そのために枝折は、紙の本の部署に近づき業務を教えてもらう計画を、連休中に立てた。
芹澤鷲雄(せりざわ・わしお)——文芸編集部の編集長に、相談に乗って欲しいとメールを送った。そして今日の夜、二階の会議室で話を聞いてもらうことになったのである。
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