◆女王にひざまずく男
会社から地下鉄で数駅の四ツ谷駅。岩田は改札を出て、マンションへの道をたどる。
まだ夜の早い時間だ。辺りは暗くなっているが人通りは多い。出版社といえば、深夜まで残業をしているイメージがあるが、電子の編集部の帰りは早い。取引先である電子書店の時間に合わせて仕事をしているからだ。
岩田はしばらく歩き、ビルに着く。エレベーターに乗り、自宅の階で降りた。
鍵を出して扉を開ける。「ただいま」と大きく声をかける。
「そんな大声で怒鳴らなくても聞こえるわよ」
奥の部屋から声が返ってくる。玄関だけでなく、電灯は全てつけてある。居間に行き、荷物を棚に置いたあと、寝室に向かった。
「香澄(かすみ)、ただいま」
「おかえり薫ちゃん」
妻の香澄が、気だるそうに言った。
大きな椅子に座った香澄の様子を、岩田は笑顔で窺う。目鼻立ちがしっかりした、化粧映えする顔。しかし化粧はしておらず、髪は適当に結っている。体は肉感的で、石榴(ざくろ)の実を連想させた。
「なにか飲み物でも飲む?」
「いや、俺が入れるよ。お茶でいいか」
香澄が立ち上がろうとしたので遮った。
「私がやるのに」
「愛する妻には負担をかけたくねえからな」
「本当に過保護ね」
香澄は椅子に背を沈めて、笑い声を漏らす。
キッチンに行き、湯を沸かす。湯呑みを二つお盆に載せ、居間に移動した。寝室を出た香澄は、優雅にソファーに腰を下ろしていた。
「それで薫ちゃん、どうなの。例の新人ちゃんは」
岩田は、ひざまずいて湯呑みを差し出す。
「仕事はきちんとこなすし手は早い。だが、どうしても跳ねっ返りでなあ」
「薫ちゃんも、相当な跳ねっ返りだったじゃない」
「まあな。よく上の人間に食ってかかっていたしな。それで店に行き、香澄に愚痴を聞いてもらっていたわけだが」
二歳年下の香澄は、昔ホステスをしていた。当時担当していた作家と入った店で、本の話で盛り上がったのが馴れ初めだった。
「その子、薫ちゃんと同じように本好きなんでしょう」
「ああ、だが、春日は紙の本限定だよ。電子の方には興味がなくてな」
「まるで自分は違うみたいね。それじゃあ薫ちゃんは、電子の本の方がよいと思っているの」
岩田は渋い顔をする。
「まだ電子書籍は、よちよち歩きの存在だ。でもすぐに世間では、そっちの方が主流になる」
香澄は、湯呑みを指先でコツコツと弾く。感情のやり場に困った時の癖だ。体に溜まった不満をしぼり出すように、指に力を込めている。
「薫ちゃん、紙の本を全部捨てなくてもよかったのに」