◆青年文士とゆでガエル
その日、枝折と岩田はもう一人の小説家に会いに行った。
漣野久遠(れんの・くおん)。枝折(しおり)と同じ二十二歳の若手作家。新人賞で佳作を取りデビューした準引きこもりの男性。彼はネットを舞台にした、一部の若者に刺さる小説を書いている。
池袋から埼玉へと向かう西武池袋線。東久留米駅近くのファミリーレストランで、枝折たちは漣野に会った。
線が細く、顔が整っている。色白なことも手伝い、大正時代の青年文士を連想させる。
岩田は漣野に話し始める。その横で、枝折は漣野を観察する。無表情で口を閉じたままだ。心を水晶にでも封じ込めたようだ。
話の内容は南雲の時と同じ、電子専売の小説を書いてくれというものだ。一通りの話が終わったあと、漣野は口を開いた。
「電子書籍専売だと、前よりも売れなくなりますよね。初版保証もなくなりますから、お金はほとんど入って来ないはずです。
お金も入らない、人にも読まれない。もしそうなら無料で公開した方がいいんじゃないですか。ネットの小説投稿サイトなら、何万人、何十万人の人が読んでくれますから」
枝折は思わず身を固くする。頼りない外見とは裏腹に、漣野の言葉は辛辣だった。口調こそは丁寧だが、不満がにじんでいた。
「それでも電子専売の本を書いて欲しいというのは、そちらに利があるからですよね。
今後、なにかの拍子に僕の作品がヒットした時に、売るための弾を用意しておく。出版社側のリスクを最小限にして、将来のために種をまく。それって僕のメリットはどこにあるんですか。僕にも分かるように説明してください」
枝折は、否定の言葉を出そうとして飲み込む。
漣野は、出版社側の意図を見透かしている。あるいは南雲も、そう思っていたかもしれないが口にすることはなかった。漣野は、不信感をそのまま相手にぶつける若さを持っている。
漣野は一呼吸置き、話を続ける。
「電子書籍は出版社を通さず、個人でデータを作って直接販売できます。
自分でやるよりも出版社経由でやる方が、多くの数が売れると断言できますか? そのための予算や手間をかけてくれますか? 電子書籍の小説の宣伝なんて見たことがありませんよ。
そうした状況の中で、電子書籍専売という話に、僕はどういうメリットを見出せばよいのですか?」
ぐうの音も出なかった。会社では、電子書籍に広告予算はつかない。新聞広告や電車広告は百パーセントない。それどころか、紙の本の広告に、電子版のことを書いてもらえないことも多い。
紙の本の営業は、書店の客が電子書籍に流れることを嫌う。そのため予約一つとっても、紙の本の予約を先にして、電子版の予約は発売直前まで止められることがある。実店舗の売り上げが減ると、本屋の数が減少して売り先がなくなる。そのことを恐れているのだ。
そうした広告面で冷遇されている電子書籍の販促は、電子書店に頼っている。
クーポンやポイントバックという形で電子書店に働きかける。リリース資料を送って、取り上げてもらう。しかし、それらは電子書店内で閉じている。
電子書籍専売の企画は、出版社の発信力という利点を、削ぎ落としたものだと言える。
「おっしゃることは、ごもっともです」
岩田はうなずき、真摯な態度を取る。
「漣野さんの小説は、電子の読者が一定数います。これからの電子書籍時代の作家だと思っています。その読者に漣野さんの原稿を届けたいんです。専売の話、是非ご検討ください」
漣野は無言で視線を逸らす。出版社に対しての信頼が、著しく低下している。
冷め切った顔——。しかしそこには、それ以外の感情もわずかに含まれていた。悲しみ。その表情を、枝折は見逃さなかった。
なにか言葉をかけなければ。枝折は必死に頭を働かせる。
「私たちと一緒に本を作りましょう」
紙ではない電子の本を——。
漣野は少しだけ興味を持った目を枝折に向けた。しかしそれも一瞬だった。すぐにまた冷たい顔に戻った。目の奥には、深い闇が横たわっていた。
地下鉄の駅から出て、オフィス街のど真ん中に出る。車の騒音と人のざわめきが空気を震わせている。
「なあ、春日」
会社に戻る道を歩きながら、岩田が語りかけてきた。
「俺はな、自分のことをキリギリスだと思っている」
枝折は前を見ながら、アリとキリギリスの話を思い出す。
電子書籍には実体がない。その商品を扱う自分たちは、なにも残らない仕事をしている。
触れない本。電源を落とすと見えなくなる文字。
自分たちは、夏の日に曲を奏でるキリギリスのような存在ではないのか。
失意を抱えた南雲や、敵意を持った漣野を思い出す。
紙の本が売れず、弾き出された作家たち。岩田はそうした人の中から、電子書籍で戦えそうな人材を募り、電子専売の本を出そうとしている。紙の本のおまけではなく、電子主導の本の世界を作り上げようとしている。
「私はアリになりたいですよ」
空虚な電子媒体ではなく、実体のある紙の本の仕事をしたい。そうした思いが、アリという言葉になって出た。
「アリとキリギリスか。そういう意味じゃねえんだけどな」
岩田は面倒くさそうにこぼす。
では、どういう意味なのだろう。岩田は頭を搔きながら、少しだけ歩みを速めた。
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