午後にまた裁判所に戻るという中北と中華街で別れて、城戸は関内駅近くの事務所まで、一人で歩いて戻った。夏の名残が引いてゆく気配を、汗が兆すようで意外と乾燥したままの額の縁に感じた。
横浜スタジアムに隣接する公園には、ベビーカーを押す母親たちやベンチでパンを齧っているサラリーマンの姿があった。
事務所と裁判所と自宅とが近すぎるせいで、彼は、あまり背の高くない近辺のビル群も、飲食店街も、銀杏並木も、弁護士として、夫として、父親として、普段から様々に眺めている。
今は、そのどれともつかない曖昧な眼差しだった。そして、今し方の会話のことを考えながら、里枝と会うために、初めて宮崎に出向いた日のことを思い返した。
プロ野球の春季キャンプのシーズンで、城戸は、辛うじて空室が出たシーガイアのシェラトン・ホテルに宿泊したが、それがまた、妻の疑念の原因にもなっていた。
実際、ツインの部屋は出張にしては良すぎて、窓から眼下のゴルフ・コースを見下ろし、その先の海と空を眺めていると、ここに一晩一人で寝ることが虚しくなった。
しばらくベッドに寝転がっていた。真っ白なシーツは、制服のように固くマットレスを包み込んでいて、何か乱暴な、がむしゃらな手つきで剥ぎ取られるのを黙って待っているかのようだった。
眼鏡を外して仰向けになった。
城戸は、かつて汗ばんだ全裸で、激しい動悸と心地良い深呼吸とともに眺めた幾つかの天井の記憶を呼び覚ました。胸の裡に淫猥なものが閃いた。誰かが傍らにいて、互いの裸体の熱を感じ合っているべきであるような、遠慮深い静けさだった。
ほど経て、彼は埒もない妄想を溜息交じりに振り払うと、一階のレストランに名物のチキン南蛮を食べに行き、その後、タクシーで市街地まで飲みに出かけた。
夜は少し肌寒かったが、ジャケットにジーパンという格好で気ままに歩いた。
旅行慣れしていないわけでもないが、観光客でさえないことが、自分は誰でもない、という感覚に彼を深く浸らせた。
ここにいるすべての人間にとって、彼はまったくの見知らぬ他人だった。勿論、横浜の街中でも、それは大して変わらぬはずだったが、少なくとも風景は、これほどまでに他人行儀ではなかった。そして、名前を失い、他人からの見覚えをなくしてしまったその状態が、彼には頗る心地良かった。
商店街のアーケードの下を歩くと、城戸の視界を、二十代の頃には何度か訪れ、結局、あまり夢中にもならずに足が遠退いてしまった類の店が、幾つか掠めていった。
彼は、その安っぽい電飾の輝く看板の前に、足を止めかけた。唐突に──寧ろそう、自分ではない誰かのように──、今日はこっちに入るべきではないかと思い立った。看板の説明書きを読み、明るい髪の色の若い女たちの写真を眺めた。そして、その考えを燻らせたまま、止めかけた足を惰性のように進めて、ネットで事前に調べたバーに辿り着いたのだった。
店は、カウンター越しにライトアップされた観葉植物を眺める洒落た店で、その生い茂る緑から漏れる光を浴びて、色々のウィスキーやリキュールのボトルがきれいだった。
疲れていたので、八時頃に店に入って、一、二杯で帰るつもりだった。──が、思いがけず、彼はその夜、日付が変わるまで一人で飲み続けることになった。
カウンターには、最後まで他に客がなかった。テーブル席は疎らに埋まっていて、奥の個室からは、扉が開く度に、何やら騒々しい声が漏れてきた。店員が、忙しなくビールやつまみを運び続けていたが、遅れて入ってきた巨体の数名から、キャンプ中のプロ野球選手だと気がついた。城戸は、野球に関心がなく、ベイスターズの選手でさえまったく知らないので、どこのチームかはわからなかったが、店員の思わせぶりな目配せから、どうも有名な選手らしいことを察した。
店内には、《カインド・オヴ・ブルー》や《ポートレイト・イン・ジャズ》など、誰でも知っているジャズの名盤が控え目な音量で流れていた。
城戸は、一杯目にウォッカ・ギムレットを注文して、美涼のことを思い出した。長らく彼は、バラライカを愛飲していたが、あの時はなぜか急にこれを飲みたくなって、以後、青年時代にあれほど耽溺したコアントローの甘みに、もう戻れなくなってしまっていた。
バーテンは、城戸より少し年上くらいの男性で、いいシェイカーの振りっぷりだったが、あろうことか、ライムの実を搾らず、市販のジュースを使っていて、カクテルの味は最低だった。そして、「美味いウォッカ・ギムレットを作ってくれた人」という美涼の印象は、彼女の、どことなく倦怠感のある気楽な雰囲気と相俟って、城戸の中で一層、蠱惑的な光を灯した。
二杯目からは、珍しいサハリンスカヤをストレートで貰ったが、よく冷えていて、すっきりしているが意外と横にも広がりがあり、最初からこれにすれば良かったと思った。一息吐くと、自分がたった一人で宮崎にいることのふしぎに心地良く沈潜していった。
奥の個室の飲み物が一旦落ち着き、ようやく余裕の出来たバーテンから話しかけられた。
「県外から来られた方ですか?」
「ええ。──わかります?」
「わかりますよ。東京の方ですか?」
城戸は頷いたあと、グラスを空にして、しばらくその底に溜まった、傾けても恐らくは舌にまで届かないであろう数滴分の名残を見ていた。そして、さほど酔った自覚もないまま、徐にこう続けた。
「元々、群馬の出身なんです。伊香保温泉にある旅館の次男坊で。」
「へぇ、そーっすか。有名な温泉地ですよね? 行ったことないですけど。」
「ええ。九州も良い温泉がいっぱいあるから、なかなかあっちまで行かないでしょう。……実家の方は兄貴が継いで、俺は次男だから、出ちゃったんですけどね。家族とも元々、折り合いが悪かったし。」
城戸は、出し抜けの打ち明け話に少し戸惑った様子のバーテンに微笑んでみせた。
〝X〟はこんな風に、この街に「谷口大祐」として辿り着いて、その過去を自らの過去として語ったのだろうか。新しい人生の着心地、乗り心地を確かめるようにして。──
バーテンは、グラスを拭きながら、優しい共感の籠もった目で城戸の話を引き取った。
「うちもそうっすよ。あんまり初めてのお客さんにする話じゃないですけど。うちは土建屋なんすよ。やっぱり兄貴が継いでます。」
そう言って、雇われ店長だというバーテンは、名刺をくれた。城戸は、受け取りながら、
「すみません、丁度名刺を切らしてて、……谷口です。谷口大祐。」と言った。
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