ある男

ある男(12)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 もし血の繫がった両親を愛せなかったなら、生まれながらの苗字にも、自分のものという感じを抱けないのだろうか。……

「お母さん、もうお父さんのこと、忘れちゃったの?」

「そんなわけないでしょう?」

「じゃあ、お父さんのお墓、いつになったら作ってあげるの? 骨壺のまま、ずっとほったらかしてて。お父さんのことだって、あんまり話さなくなったし。お母さん、おかしいよ。」

「……。」

「お母さんが武本に戻っても、僕は谷口悠人でいいでしょ? お父さん、……かわいそうだよ。実家の家族からも見捨てられて、僕たちからも忘れられたら。」

 新学期の朝の、何かに追い立てられるような静けさを、古いクーラーの音が強調していた。

 悠人は、お盆に家族で別府に旅行に行った折に声がかすれ始めて、戻ってきた時にはすっかり声変わりしていた。そのせいもあるのか、里枝は息子が急に大人びて感じられた。

 カーテンの閉じ目から差し込む朝日は、この僅かなやりとりの間にも、目に見えて強くなって、ツクツクボウシの鳴き声が、煽られるように高くなっていった。

 里枝は、堅く結んでいた口許を緩めると、力なく嘆息した。

「悠人にとって、お父さんはどんな人だった?」

「え?……やさしかったよ。違うの?」

「ううん。そうね。」

「叱る時も、ちゃんとどうしてダメなのか、一緒に座って説明してくれて、僕の話もよく聞いてくれたし。……前のお父さんよりも、人間として立派だと思う。僕には、前のお父さんの血が流れてるけど、後のお父さんが本当のお父さんだったら良かった。花ちゃんがうらやましい。」

 悠人は、再婚後、決して「本当のお父さん」という言葉を口にしなかった。当時はまだ八歳だったので、ただ母親の口調を真似て、「前のお父さん」と呼んでいたのだった。しかし、恐らくは、そのあとどこかで、「後のお父さん」への愛着から、或いはまた母親への気づかいから、「本当のお父さん」という言い方はすまいという、決心らしきものがあったのだった。そう言った途端、「後のお父さん」は、「本当ではないお父さん」となってしまうから。──

 里枝は、悠人のそうした心中を、ある時、それとなく察して、息子の健気な優しさを愛おしく感じた。それはなるほど、彼が「前のお父さん」の血から受け継いだというより、「後のお父さん」の影響下で得た性質のようだった。

「お父さんも、悠人のこと、本当にかわいがってたものね。」

「僕、……お父さんが死んで、悲しいっていうのはさ、もう、……ないんだよね。おばあちゃんもやさしいし。けど、なんか、……」そう言って、悠人は照れ臭そうに笑うと、「……さびしいね。お父さんに聞いてもらいたいことを、毎日たくさん抱えて家に帰ってくるのが。……」

 そして、とうとう肩を震わせて、泣き出してしまった。里枝は、自分まで一緒に涙ぐんでしまいながら、えつする息子の背中をそっと撫でてやった。

「悠人はお父さんが好きだったよね。」

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平野啓一郎
コルク
2018-09-28

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