遼は、明るく活発な子供で、兄の悠人といつも遊んでいたこともあり、言葉の覚えも驚くほど早かった。おむつは一歳十ヶ月で取れてしまい、保育士たちも驚いていたが、夫はそれを自分がネットで調べて実践している早期教育の賜だと自慢にしていた。
ところが、二歳の誕生日を迎える少し前から、遼はまたよくおねしょをするようになった。保育園にいる日中も、漏らしてしまうことが度々あり、里枝も保育士たちも、「さすがにまだちょっと早かったみたいですね。」と、笑っておむつをつけさせたが、夫はその後戻りを甘えだと叱って、殊に寝る前に、遼が喉の渇きを訴えて泣き喚く度に、「だから漏らすんだよ!」と我慢させようとした。そのために、里枝とは何度も口論になっていた。
そのうちに、遼は何となく元気がなくなり、時折、嘔吐するようになった。
里枝は最初、夫が厳しすぎるために、精神的に辛いのではないかと疑っていた。保育士もその考えに同調していた。「おなかがいたいの?」と訊いても、「おなかはいたくないの?」と訊いても、曖昧に「……うん。」と返事をするので、どこが悪いのかよくわからなかったが、どうも朝起きて、登園前になると、頭が痛くなるらしかった。
夫は、里枝のそうした心配を、自分に対する当て擦りと取って不機嫌になった。そして、珍しく自分で息子を保育園に迎えに行った帰りに、黙って近所の小児科に連れて行って、「ただの風邪だったよ。」と、貰ってきた薬を、ぽんとキッチンのカウンターに投げ出した。
あとから振り返ると、前夫はこの頃の自分の態度をずっと気にしていて、結局、以後、何もかもが、おかしな具合になってしまったようだった。
一週間薬を飲み続けても、遼の体調は回復しなかった。里枝は、改めて遼をかかりつけの別の小児科に連れて行くことにしたが、夫は、「そんなにいつも『頭痛い?』って尋ねてたら、遼もそう思い込むだろう? 精神的なものって言うならお前のせいだよ。」と険しい顔をした。
遼を診察した医師は、すぐに大きな病院で診てもらった方がいいと紹介状を書いた。脳腫瘍の疑いを告げられたのは、この時が初めてだった。
翌週、MRI検査の結果、遼は大脳基底核に脳腫瘍が出来ていて、「典型的なジャーミノーマ」と診断された。おねしょも喉の渇きも、それに伴う尿崩症だという説明だった。
里枝は、この最初の診断の後、ほとんど縋るようにしてその「治る」という言葉を信じてしまったことを、今に至るまで後悔していた。尤も、医師も最初はジャーミノーマという診断に自信を持っていて、あとから主張するほど、グリオブラストーマの可能性は説明しなかったはずだった。現実と向き合うことは難しかったが、意外にも夫は、いち早く完全にこの診断を受け容れた。彼は、この過酷な運命に敢然と立ち向かうことに、自尊心の拠りどころを見出し、奇妙な高揚感をさえ顕わにした。それは、ここに至るまで、息子の病気への対処を巡って妻から傷つけられた矜恃の一種の補償となった。ほとんどはりきっているような有様だった。
しかし、実際に当時働いていた銀行を辞め、入院中の遼の隣に簡易ベッドを持ち込み、三ヶ月間、寝泊まり看護を続けたのは里枝だった。夫は、「治る」と思っていたからだった。そして、「とにかく化学療法と放射線治療をやってみるのが合理的」と、里枝の理解の悪さを〝文系〟で〝女〟だからだと繰り返し詰った彼は、その治療がどれほど苦しいかがまるでわかっていなかったのだった。
里枝は、絶え間ない嘔吐に苛まれ続けていた遼の姿を、努めて思い出さないようにしていた。口内炎が酷く、つばを飲み込むことさえ痛がって泣き、見る見る瘦せていった。彼女自身も、ほとんど眠ることが出来ず、食事も喉を通らなくて、元々小柄なのに、たった三ヶ月で九キロも体重を落とした。それでも「治る」と信じていたからこそ、苦しさで暴れる遼を抱きしめながら治療を受けさせていたのだった。
遼の泣き顔の代わりに、彼女が今も思い出すのは、ベッドに腰掛けて、「がんばるんだよ、おとこのこだから。──な?」と医師に諭され、両手を膝について、「はい。……はい。……」と真剣に頷いていた、あのいたいけな表情だった。髪も脱け、顔は別人のように浮腫んでいた。「うん」ではなく「はい」だというのは、夫が拘って厳しくしつけたことだった。亡くなったあとも、何度遼は、里枝の夢に出てきて、その言いつけに「はい。……はい。……」と頷いたことか。……
そして、自分たちが遼に強いたすべての苦しみが、まったく無意味だったと知った時の、あの絶望。だったら、あの短い命の残りの日々、自分たちはせめて遼に食べたいものを好きなだけ食べさせ、大好きな動物園に連れて行ってやり、どんなわがままでも聞いてやって、少しでも生きることの喜びを感じさせてやるべきだったのだ。いや、そもそもあんな厳しいしつけなど必要なかった。わかってさえいたなら!──「治らない」、つまりは助からない、と知った時、里枝は、目に見えない何か乱暴な手に口を塞がれて、そのまま鷲摑みにされたように、まったく息が出来なくなってしまった。体の内側が火がついたように熱くなり、また氷を詰め込まれたかのように冷たくなって、両手足を奇矯に擦り合わせながら、ただ泣くばかりだった。
その時、自分の体が何をしようとしていたのか、里枝は今ではわかる気がした。
そのまま、もう何もわからなくなるまで、狂ってしまおうとしていたのだった。
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