ある男

ある男(9)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 谷口恭一の訪問を受けた日、里枝は、思いもかけない事実を突きつけられて、気が動転したまま、一緒に警察署を訪ねていた。恭一への不信感はもとより、恐らくは法秩序を逸脱しているこの事態を、ともかく通報しなければ、と思ったからだった。

 警察署は、彼女が高校時代、いつも通学で利用していたバスセンターから目と鼻の先だったが、足を踏み入れたのは初めてだった。

 里枝には一つ、意外なことがあった。

 早まってありのまますべてを刑事に話したものの、こんな不可解な出来事が発覚すれば、たちまち大騒ぎになるのではと、途中から不安を感じ始めていた。事件として捜査が始まれば、悠人や花も無関係ではいられまい。狭い町のことなので、噂はあっという間に広まるだろう。新聞沙汰にもなるのではあるまいか。……

 しかし、担当した刑事は、最初からなぜかずっと不機嫌だった。二人の混乱した説明に、しきりに首をかしげ、

「え? じゃあ、死んだのは誰なんですか?」

 と問いただした。そして、特に署内の誰に相談するわけでもなく、ひとまず恭一に、谷口大祐の捜索願だけを出させた。里枝は、死んだ夫が一体誰なのかを知る術を尋ねたが、それについては、とにかく谷口大祐の捜索が先だと、取り合ってもらえなかった。

 警察からはその後、まったく音沙汰がなかった。二週間待ってこちらから電話をすると、失踪者名簿と照合しても、合致する人物はいなかったとだけ素っ気なく伝えられた。夫の身許について里枝が喰い下がると、「現状では調べようがないんです。」と突っぱねられてしまった。


 里枝は、自分が何をすれば良いのか、わからなかった。

 彼女が城戸に相談することを思いついたのは、彼を弁護士として信頼していたからだけでなく、実家に戻ってからのこの七年間が、急に現実感を失ってしまって、途方に暮れたからだった。彼女の記憶の中で、最も確かなのは、遼を亡くしたあの横浜時代だった。そして、その時の唯一の心の支えが、他でもなく城戸だった。

 里枝は電話で、警察の対応についての不信も伝えたが、城戸は以前と変わらない、落ち着いた声で、

「警察は、何もしないでしょうね。失踪事件だけでも、年間、数千件はありますから。特に、亡くなったご主人が、誰だったのか、という点に関しては。基本的に彼らも公務員ですから、面倒を増やしたくないんです。」

 と言った。

 里枝は唖然としつつも、この状況を冷静に共有してくれる存在に救いを感じ、警察では決して口にしなかった疑問について尋ねた。

「夫は何か、……犯罪に関わってるんでしょうか?」

 城戸はしばらく考えてから、慎重に幾つかの違法行為の可能性を示唆し、「少し調べる時間をください。」と言うに留めた。


 年が変わって二月の末に、城戸が宮崎まで来てくれた。

 店の応接スペースで面会して、何も食べていないというので、近くのうなぎ屋に連れて行った。そこは、かつて里枝が〝X〟から、初めて「谷口大祐」としての素姓を明かされた店だったが、敢えて選んだわけではなく、歩いて行ける場所では、もうそこくらいしか、人を連れて行けるところが残っていないのだった。

 七年ぶりの再会で、人のことは言えなかったが、城戸は少し歳を取った感じがした。びんに大分、白いものが混ざり始めていた。

「お忙しそうですね?」と言うと、

「ええ、二月がちょっと。でも、もう落ち着きましたから。」と眼鏡の下に中指を差し入れ、目頭を強く押して笑った。

 横浜の弁護士事務所でいつも会っていたので、ここで顔を合わせるのはふしぎな感覚だった。城戸は、山に囲まれたさびれた田舎町の風景を、話が途切れる度に、そのまま浸りきってしまうような眼差しで窓から眺めていた。そして、「美味しいですね。」と言って、特上の鰻重と、肝吸いの代わりについてくる郷土料理のじるをきれいに平らげた。

 城戸は、落ち着いた、親切な弁護士で、里枝は、子供を失ったあとの離婚調停中も、彼の優しい微笑みに何度か慰められたことがあった。七年ぶりに再会した彼は、やはり変わらず紳士的だったが、ふとした拍子に、どことなく物寂しげな表情になってしまうのが目についた。しかも、自分ではそれに気づいていない様子だった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ある男

平野啓一郎
コルク
2018-09-28

コルク

この連載について

初回を読む
ある男

平野啓一郎

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。 弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って1...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません