日曜夜7時半の敗北 ~宇宙戦艦ヤマト④~

2010年代に入ってから、ウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」などが次々と40、50周年を迎えている。それらはみな、単に昔のものとしてあるだけでなく、現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、これらの大半は1970年代に始まった。 1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からテレビで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

「記憶をたどりながら書きますが、公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ、事実確認をして書きます。歴史家的視点と、当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ、「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います。(筆者)


●『アルプスの少女ハイジ』に負ける

かくして『宇宙戦艦ヤマト』は一部のSFファンの期待を背負い、1974年10月6日に読売テレビ・日本テレビ系列で放映開始となった。未来を舞台にしたアニメはそれまでにもあった。何よりも『鉄腕アトム』が当時から見た未来である21世紀前半が舞台だ。しかし、『アトム』が描く未来と『ヤマト』が描く未来とでは、雰囲気が異なっていた。明と暗の違いというより、空想的か科学的かという違いだろうか。

『宇宙戦艦ヤマト』は2199年という設定である。まったくのフィクションなのだが、細部までよく練られていた。当時「世界観」という言葉はまだ使われていなかったと思うが、設定の世界観がしっかりしていたのだ。ロボットの玩具を欲しがる子供に向けたものではなく、SFファンに向けられたものだという意志のようなものが感じられた。

絵も美しかった。立体感というか奥行きが感じられた。「戦場まんがシリーズ」で知った松本零士のキャラクターに、これまでに見慣れていたマンガ的なものとは異なる、リアルさがあった。そして、戦艦大和。第一回では第二次世界大戦で沈んだ大和の、無残な姿が映されて終わる。このボロボロの戦艦大和に人類の未来を託すしかない、として。

見る方としては、この大和の残骸が宇宙戦艦ヤマトに生まれ変わることは知っているが、見せられた戦艦大和のボロボロなのに美しい姿は絵として衝撃だった。ストーリーではなく、絵にも感動するというかつてない経験に少年は動揺した。

翌週の月曜日、クラスの男子の間では『宇宙戦艦ヤマト』は話題になった。だが、視聴率は低かった。同じ時間帯にフジテレビ系列で『アルプスの少女ハイジ』が1月から放映されており、「良い子」のいる家庭はそちらを見ていたのだ。この『アルプスの少女ハイジ』には宮崎駿と高畑勲が参加していた。

ライバルは『ハイジ』だけではなかった。TBS系列では、円谷プロ制作の『猿の軍団』が同じ10月6日から始まっていた。アメリカ映画『猿の惑星』(1968年)が1973年12月24日にTBSの「月曜ロードショー」で放映されると、37.1パーセントという驚異的な視聴率を取った。そこで、日本版を作ろうとなってSF作家の小松左京、豊田有恒、田中光二が集められて原作を作って出来たSFドラマだった。豊田は裏番組にも関わることになったので、当初は「原案」だった『ヤマト』での肩書が「SF設定」になってしまう。

当時はビデオが家庭には普及していないので、SFファンはどちらを見るかという苦渋の選択を迫られた。僕も悩んだすえに『宇宙戦艦ヤマト』を見た。『猿の軍団』は『猿の惑星』のマネのように思えたからだ。『アルプスの少女ハイジ』は74年12月に終わり、75年1月からは『フランダースの犬』が始まるが、これも強かった。『宇宙戦艦ヤマト』と『猿の軍団』はこの世界の名作を前にして、SFファンを奪い合ったので共倒れとなり、『ヤマト』はビデオリサーチ調べで平均6パーセント、ニールセン調べでも平均7.3パーセントに留まった。

『宇宙戦艦ヤマト』は当初は1年間の予定だったが、放映開始の時点で3クール、39回となっていたという。それが結局は視聴率の低迷から2クール・26回で打ち切られてしまった。一説には、西崎が会議ばかりやっていたために制作が遅れ、これ以上は作れなくなったためともされている。「人類滅亡まであと364日」から始まって数日ずつ減っていくはずが、後半は駆け足となった。3月23日の第25話でヤマトはイスカンダルへ到達し、放射能除去装置コスモクリーナーDを受け取る。この時点で「あと131日」。ところが、翌週の30日にはヤマトは地球へ帰還しており、人類滅亡は免れた。イスカンダルへ着くまではガミラス軍との闘いがあるが、帰りは邪魔するものがないので、あっさとり戻れたのだと考えれば、むしろ、最初の予定の1年もかけたら、間延びしたストーリーになっていたかもしれない。

視聴率の面では『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙戦艦ヤマト』と西崎は三連敗だ。だが西崎は手応えを感じていた。ファンクラブが自然発生的にできていたのだ。

『宇宙戦艦ヤマト』において西崎は「著作権はすべてオフィス・アカデミーに帰属する」という契約をテレビ局と結んでいた。本放送が終わると、地方局に再放映権を売りまくる。地方によっては20パーセントを取ったところもあった。それに伴って、各地にファンクラブができていった。『海のトリトン』のときよりも、ファンクラブの数も熱意も大きかった。


●劇場版公開

『宇宙戦艦ヤマト』は1975年3月に放映を終えた。僕はちょうど中学2年から3年になろうとしていた。

テレビアニメが始まるのとほぼ同時に、松本零士によるマンガ『宇宙戦艦ヤマト』が「冒険王」で1974年11月号から1975年4月号まで連載された。月刊誌での6か月連載なので、マンガ版は松本零士いわく「かなりのダイジェスト版」となってしまい、75年7月に秋田書店のサンデーコミックスから出る際は60ページほど加筆されている。この時点では続編の計画はなく、単行本もこれ一冊のつもりだったので「第一巻」という表記は見当たらない。

視聴率は低かったが『宇宙戦艦ヤマト』は劇場用アニメとして公開すると大ヒットし、西崎義展はたちまち名プロデューサーと呼ばれるのだが、それは1977年8月のことで、そこまでには2年半の歳月が必要となる。その間、西崎は何をしていたのだろうか。アニメのプロデュース作品は何もない。

西崎の仕事のひとつは『宇宙戦艦ヤマト』の再放映権を地方局に売り歩くことだった。そこで何らかの手応えを感じた西崎は、2時間前後に再編集したものを映画館で公開することを目論む。30分番組が26回分なので単純な掛け算で計13時間。実際は25分前後としても、10時間を超えるフィルムがある。それを2時間にしようというのだ。

西崎は当初から『ヤマト』の劇場公開を視野に入れていたとも言われる。通常16ミリフィルムで撮影するところ、『ヤマト』は35ミリフィルムで撮影されていたからだ。コストはかかるのに、あえて、西崎は35ミリで撮らせた。

編集作業は76年8月から始まっていた。最初に『ヤマト』に関わっていた山本暎一が呼ばれ、10月に山本による構成案が提出され、77年1月に粗編集が終わっている。一方、西崎は日活の大監督だった舛田利雄にも依頼し、映画監督としての見方から構成案を作ってもらった。西崎、山本、舛田の三者が議論し、3月に舛田案をベースにした約2時間の総集編ができた。

西崎の仕事はここからが「本番」だった。これを配給会社に売り込まなければならない。だが1977年の時点では、劇場用アニメといえば東映まんがまつりのような子供向けのものしかなかった。ディズニーも当時は低迷していた。中学・高校生が見るアニメなど、映画業界の人には考えられない。東映、東宝、松竹の大手三社には断られ、洋画配給の日本ヘラルドにも断られた。

そこで西崎は配給会社に売り込むのは諦め、映画館を持つ東急レクリエーションに持ち込むと、すぐに乗ってきた。西崎は配給会社に頼らない、自主配給の形を採る。前年の1976年に角川春樹が映画製作に乗り出し、独立系プロデユーサーの時代が始まっていた。西崎に時代の風が吹いていた。

4月に「8月公開」と決まっがた、「自主配給」なのでポスターやチラシの作成・手配もすべて自社でしなければならない。西崎はこの時点で、全国にできていた『ヤマト』のファンクラブを組織化することを思いつく。さらに、以前に懇意にしていた創価学会の民音にもアプローチした。一見、大博打のようだが、セーフティネットはあったのだ。

オフィス・アカデミー内にファンクラブの事務局を置き、全国のファンクラブにポスターを送り、目立つところにはるように頼んだ。さらにラジオ番組には『宇宙戦艦ヤマト』の主題曲をリクエスト、雑誌にも「特集してくれ」とリクエストするよう依頼した。

そういう組織が動いているとは知らないメディア側はリクエストに応じていく。マスメディアへの露出で、いわは浮動票を狙う一方、『海のトリトン』が生んだ新しいタイプの「アニメファン」、それはつまり「中学生以上でアニメを映画やテレビドラマと同じ映像速品と受け止め、マンガや小説のような物語として感動し、評価、分析する層」へのアプローチも抜かりはなかった。この層が選挙でいう固定票になってくれる。

こうしてブームは仕掛けられていった。当初は東急レクリエーション系の銀座東急、渋谷東急レックス、池袋東急、新宿東映パラスという普段は洋画を上映する映画館での上映が予定されていたが、前売券販売が3万枚を超えると、新宿東急、丸の内東映パラスの2館も加えられた。1977年の角川映画は10月公開で『人間の証明』が予定され、夏には大量宣伝が始まっていた。それに比べれば、『宇宙戦艦ヤマト』は資金もないので、ゲリラ的な戦法をとらざるをえなかった。しかし、これが見事に成功するのだ。

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2016-02-25

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すべては1970年代にはじまった

中川右介 /角川新書

2010年代に入ってから、ウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」などが次々と40、50周年を迎えている。それらはみな、単に昔のものとしてあるだけでなく、現役のコンテンツとして新作が発表され...もっと読む

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コメント

yokokaracc こういう、歴史の裏側の詳しい話好き 18日前 replyretweetfavorite

hisapyon_akiba 最初のTVシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』は放送時間に恵まれなかった。それが劇場版で大逆転、今月から「2202」が放送されるまでに。 https://t.co/sgHD0YW4f8 19日前 replyretweetfavorite

hidy0208 #スマートニュース 19日前 replyretweetfavorite