●『アルプスの少女ハイジ』に負ける
かくして『宇宙戦艦ヤマト』は、一部のSFファンの期待を背負い、一九七四年一〇月六日に、読売テレビ・日本テレビ系列で放映開始となった。
未来を舞台にしたアニメはそれまでにもあった。何よりも『鉄腕アトム』が当時から見た未来である二一世紀前半が舞台だ。しかし、『アトム』が描く未来と、『ヤマト』が描く未来とは、雰囲気が異なっていた。明と暗の違いというより、空想的か科学的かという違いだろうか。
『宇宙戦艦ヤマト』は二一九九年という設定である。まったくのフィクションなのだが、細部までよく練られていた。当時「世界観」という言葉はまだ使われていなかったと思うが、設定の世界観がしっかりしていたのだ。ロボットの玩具を欲しがる子供に向けたものではなく、SFファンに向けられたものだという意志のようなものが感じられた。
絵も美しかった。立体感というか奥行きが感じられた。「戦場まんがシリーズ」で知った松本零士のキャラクターに、これまでに見慣れていたマンガ的なものとは異なる、リアルさがあった。
そして、戦艦大和。第一回では第二次世界大戦で沈んだ大和の無残な姿が映されて終わる。このボロボロの戦艦大和に人類の未来を託すしかない、として。
見る方としては、この大和の残骸が宇宙戦艦ヤマトに生まれ変わることは知っているが、見せられた戦艦大和の、ボロボロなのに美しい姿は絵として衝撃であり、ストーリーではなく、絵にも感動するというかつてない経験に少年は動揺した。アニメで、戦艦のような複雑な形態のものを、角度を変えたり回転させたり上昇させるのは難しいと知っていたので、なおさら感動したのだ。
翌週の月曜日、クラスの男子の間では、『宇宙戦艦ヤマト』はけっこう話題になった。
だが視聴率は低かった。同じ時間帯にフジテレビ系列で『アルプスの少女ハイジ』が一月から放映されており、「良い子」のいる家庭は、そちらを見ていたのだ。この『アルプスの少女ハイジ』には宮崎駿と高畑勲が参加していた。
ライバルは『ハイジ』だけではなかった。同じ日曜夜七時半にTBS系列で、円谷プロ制作の『猿の軍団』が同じ一〇月六日から始まっていた。アメリカ映画『猿の惑星』(一九六八年)が一九七三年一二月二四日に、TBSの「月曜ロードショー」で放映されると、三七・一パーセントという驚異的な視聴率を取った。そこで、日本版を作ろうとなって、SF作家の小松左京、豊田有恒、田中光二が集められて原作を作って、できたSFドラマだった。豊田は裏番組にも関わることになったので、当初は「原案」だった『ヤマト』での肩書が「SF設定」になってしまう。
当時はビデオが家庭には普及していないので、SFファンはどちらを見るかという苦渋の選択を迫られた。僕も悩んだすえに『宇宙戦艦ヤマト』を見た。『猿の軍団』は『猿の惑星』のマネのように思えたからだ。
『アルプスの少女ハイジ』は七四年一二月に終わり、七五年一月からは『フランダースの犬』が始まると、これも強かった。『宇宙戦艦ヤマト』と『猿の軍団』はこの世界の名作を前にして、SFファンを奪い合ったので、共倒れとなり、『ヤマト』はビデオリサーチ調べで平均六パーセント、ニールセン調べでも七・三パーセントだった。
『宇宙戦艦ヤマト』は当初は一年間の予定だったが、放映開始の時点で三クール、三九回となっていたという。それが結局、視聴率の低迷から二クール・二六回で打ち切られてしまった。西崎が会議ばかりやっていたため制作が遅れ、これ以上は作れなくなったためという説もある。
「人類滅亡まであと三六四日」から始まり、数日ずつ減っていくはずが、後半は駆け足となった。三月二三日の第二五話でヤマトはイスカンダルへ到達し、放射能除去装置コスモクリーナーDを受け取り、この時点で「あと一三一日」。ところが、翌週の三〇日にはヤマトは地球へ帰還しており、人類滅亡は免れた。イスカンダルへ着くまではガミラス軍との闘いがあるが、帰りは邪魔するものがないので、あっさりと戻れたのだと考えれば、むしろ、最初の予定の一年もかけたら、間延びしたストーリーになっていたかもしれない。
視聴率の面では『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙戦艦ヤマト』と西崎は三連敗だ。
だが西崎は手応えを感じていた。ファンクラブが自然発生的にできていたのだ。
『宇宙戦艦ヤマト』において西崎は、著作権はすべてオフィス・アカデミーに帰属する契約をテレビ局と結んでいた。本放送が終わると、地方局に再放映権を売りまくる。地方によっては二〇パーセントを取ったところもあった。それに伴い、各地にファンクラブができていった。『海のトリトン』のときよりも、ファンクラブの数も熱意も大きかった。
●劇場版公開
『宇宙戦艦ヤマト』は一九七五年三月に放映を終えた。僕はちょうど中学二年から三年になろうとしていた。
一方、テレビアニメが始まるのとほぼ同時に、松本零士によるマンガ『宇宙戦艦ヤマト』が「冒険王」で一九七四年一一月号から一九七五年四月号まで連載された。月刊誌で六か月なので、マンガ版は松本零士によれば「かなりのダイジェスト版」となってしまい、七五年七月に秋田書店のサンデーコミックスから出る際は六〇ページほど加筆された。この時点では続編の計画はなく、単行本もこれ一冊のつもりで、「第一巻」とはなっていなかった。
視聴率は低かったが『宇宙戦艦ヤマト』は劇場用アニメとして公開すると大ヒットし、西崎義展はたちまち名プロデューサーとなるのだが、それは一九七七年八月のことで、そこまでには二年半の歳月が必要となる。
その間、西崎は何をしていたのだろうか。アニメのプロデュース作品は何もない。
西崎の仕事のひとつは『宇宙戦艦ヤマト』の再放映権を地方局に売り歩くことだった。そして何らかの手応えを感じていたので、二時間前後に再編集して、映画館で公開することを目論む。三〇分番組が二六回分なので単純に一三時間。実際は二五分前後としても、一〇時間を超えるフィルムがある。それを二時間にしようというのだ。
西崎は当初から『ヤマト』の劇場公開を視野に入れていたとも言われる。テレビアニメは通常一六ミリフィルムで撮影するのに、『ヤマト』は三五ミリフィルムで撮影されていたからだ。コストがかかるのに、あえて、西崎は三五ミリで撮らせた。
編集作業は七六年八月から始まっていた。最初に『ヤマト』に関わっていた山本暎一が呼ばれ、一〇月に山本による構成案が提出され、七七年一月に粗編集が終わった。一方、西崎は日活の大監督だった舛田利雄にも依頼し、映画監督としての見方から構成案を作ってもらった。西崎、山本、舛田の三者が議論し、三月に舛田案をベースにした約二時間の総集編ができた。
西崎の仕事はこれからが本番だった。これを配給会社に売り込まなければならない。だが一九七七年の時点では、劇場用アニメといえば東映まんがまつりのような子供向けのものしかない。ディズニーも当時は低迷していた。中学・高校生が見るアニメなど、映画業界の人には考えられない。東映、東宝、松竹の大手三社には断られ、洋画配給の日本ヘラルドにも断られた。
そこで西崎は、配給会社に売り込むのは諦め、直接、映画館を持つ東急レクリエーションに持ち込むと、すぐに乗ってきた。西崎は配給会社に頼らない自主配給を決める。
前年の一九七六年に、角川春樹が映画製作に乗り出し、独立系プロデューサーの時代が始まっていた。西崎に時代の風が吹いていた。
四月に、八月公開と決まると、自主配給なのでポスターやチラシの作成・手配もすべて自社でしなければならない。西崎はこの時点で、全国にできている『ヤマト』のファンクラブを組織化することを思いつく。さらに、以前に懇意にしていた創価学会の民音にもアプローチした。一見、大博打のようだが、セーフティネットはあったのだ。
オフィス・アカデミー内にファンクラブの事務局を置き、全国のファンクラブに、ポスターを送り、目立つところにはるように頼み、さらにラジオ番組に『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌をリクエスト、雑誌にも特集してくれとリクエストするように依頼した。
メディア側はそういう組織があるとは知らないので、リクエストに応じていく。
こうしてブームが仕掛けられていった。当初は東急レクリエーション系の、銀座東急、渋谷東急レックス、池袋東急、新宿東映パラスという普段は洋画を上映する映画館での上映が予定されていたが、前売り券が三万枚を超えると、新宿東急、丸の内東映パラスの二館も加えた。
一九七七年の角川映画は一〇月公開で『人間の証明』が予定され、夏から大量宣伝が始まっていた。それに比べれば、『宇宙戦艦ヤマト』は資金もないので、ゲリラ的な戦法をとらざるをえなかった。しかし、見事に成功するのだ。
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