平成30年間のJ-POP

ユニコーンを解散したら誰もいなくなった

J-POPの数々の楽曲で日本の音楽シーンを支えてきたキーボーディスト・斎藤有太さんと、ユニコーンのメンバーとして、音楽プロデューサーとして、ソロアーティストとして日本の音楽を開拓してきたABEDONさん。大反響の対談、第二回は斎藤さんとユニコーンを解散した奥田民生さんとの出会い、そしてユニコーンを解散後のABEDONさんについてです。(聞き手、構成:柴那典

奥田民生との出会いで音楽の捉え方が変わった

— 93年にユニコーンは解散、94年には奥田民生さんが「愛のために」で本格的にソロ活動をスタートします。斎藤有太さんが奥田民生さんと一緒にお仕事するようになったのもその頃でしたか?

斎藤有太(以下、斎藤) そうですね。ユニコーンが解散して、奥田民生がソロになって、初めて彼のレコーディングに呼ばれたんです。でも、当時の僕にとっては、とあるスタジオのある日のセッションにすぎなかったんですね。誰のレコーディングかもわからないまま行くようなことも多かったから。そんな風に、ある日電話で呼ばれて、行ったらそれが奥田民生のレコーディングだった。それが彼との出会いですね。もちろんその時はこうやって二十何年も一緒にやっていくとは思いもしなかった。ただ、彼と出会ってツアーを一緒にやったり制作のプロセスに関わったりしたのは、自分にとってすごく大きかったです。

— 奥田さんとの出会いがミュージシャンとしての転機になった。

斎藤 そう。それまでの自分にはセッションミュージシャンの一筆書きのような美学があった。現場に行って、譜面をパッと読んで「弾きました」ってハンコを押して帰る美学というかね。もちろん自分が努力して身につけた技術には自分なりの自負もあったんだけど、でも、何かをクリエイトしようっていう発想はなかった。そういう時に奥田民生と出会ったわけです。

— どういう変化があったんでしょうか?

斎藤 彼の現場に入ってアルバムを一緒に作ったりツアーをするうちに、音楽の捉え方がすごく変わったんですよね。何を作るかということが大事になった。若い頃は自分の名前がクレジットをされることが大事だと思っていたんです。でも、突然そのことに興味がなくなったのを覚えている。もちろん今でも自分のプレイを気に入って呼んでもらえたら嬉しいし、全力でやるんですけど。

— 奥田さんとのスタジオの作業は他とは違っていたんでしょうか。

斎藤 アベくんのユニコーン時代の話を聞いていても思ったんだけど、アベくんはちゃんと若い時から、自分の力で発信する、クリエイトするということをやっていたんだよね。彼もそういうやり方をするんですよ。無駄なことも沢山する。まずみんなで遊ぶんですよ。で、こっちとしては「ええっ? それは意味があるのか?」って思うわけです。その頃はまだ生意気だし、最初はすぐ終わらせて帰りたいくらいに思っていて。なのにいつまでたっても始めないのよ(笑)。バンドの宿泊ネームを考え始めたりする。スタジオは抑えているのよ? だから「これ、いつ始まるんだろ?」って。

— スタジオ代も高いですもんね。

斎藤 高い時代ですよ。どれくらいお金かかるのかも、一応なんとなくわかっているから。だけどね、それがちゃんと音楽に反映されていくわけですよ。アベくんの話を聞いてよくわかったけど、それはユニコーン時代からやってたことだったんだね。


斎藤有太 ニューアルバム「The Band Goes On」(ダラシナレコード/Sony Music Artists)

プロデューサーじゃないといけないと思っていた

— ABEDONさんとしてはユニコーン時代からそういう奥田さんのスタイルに馴染みがあったわけですよね。

ABEDON 馴染みがあったというか、それを作ってきましたからね。最初にそれを作ったのは笹路(正徳)さんで、それを受け継いだのが僕だったというか。笹路さんとは年の差があったけれど、それを同年代の人たちとバンドとしてどうやるかっていうのをいつも模索していたんです。

— どんなことを模索していたんでしょう?

ABEDON まず考えたのは、バンド内で意見が分かれたときに、この意見をどうやって丸め込むか。「こうやって言われたときは、こう返せばぐうの音も出ないだろう」とか。そういうことを飲みながら話すんですね。イニシアチブを取らなきゃいけないと思っていたんですよ。思っている方向に持っていくには、ある程度バッシングも受けなきゃいけない。それをどうやって弾くかということも考えてた。

— 当時からある種のプロデューサー目線があったということでしょうか。

ABEDON プロデューサーじゃないといけないと思ってましたね。特にキーボードだったから。譜面を書けるのは僕だけだったし、コードがわかるのも当時は僕だけだったんで。そういうことをやらなきゃいけないんだろうとは思ってました。

斎藤 いや、でも、譜面が書けたからって誰しもがそういうことをできるわけではないよね。アベくんだからできたことだと思うよ。


ABEDONさんがビルボードライブ東京で行った初のソリスト公演
Blu-ray「SOLOIST WITH NO LIST at Billboard Live TOKYO July 25, 2018」

みんなが引いていった時に一緒にいてくれた人の顔は一生忘れない

— ABEDONさんは、ユニコーンが解散した後、ミュージシャンとしての意識はどう変わったんでしょうか?

ABEDON そこは僕も転機ですね。そういう年齢だったのかな。

斎藤 ずっと続けてきたバンドが一回終わったわけだから。それは大きいよね。

ABEDON バンドが人生の全てだと思っていたし、全部の時間をそのために費やしていたんです。それがなくなるということはすごいことで。それに、当時は仲間が沢山いたんです。ツアースタッフもレコーディングスタッフも事務所のスタッフも、みんなユニコーンのチームだった。でも、バンドがなくなった瞬間にサーっと誰もいなくなった。だから、人間不信に陥ったんです。

— 人間不信になった。

ABEDON 僕はバカだから、しかも20代でお金もあったから、勘違いしていたんでしょうね。みんな友達だと思っていたの。でも実はみんな、お金があるから来ていた人、会社の指名で来ていた人だった。僕はバンドしかしていなかったからそこに全然気付かなかったんです。でも、みんなが一斉にいなくなった時に、一緒にいてくれた人が何人かいるんです。僕は今でもその人たちの顔は覚えているし、一生その人が何か困ったら僕はなんでもやろうって思ってる。ただし、そこでサーッと引いていった人の顔も、僕は覚えてるんですよ(笑)。

斎藤 ははははは!

ABEDON そういう人とも、今後現場で再び会うことになるんですけど、目も合わせません。絶対に言うことは聞かないです。

斎藤 怖いなあ(笑)。

禅寺に行って、袈裟を着て、髪を切って坊主になった
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平成30年間のJ-POP

ABEDON /斎藤有太

年号が平成になったのとほぼ同時期に、「ニューミュージック」から呼び名が変わることで「J-POP」は誕生しました。90年代に入ると、バブル崩壊も関係ないかのようにミリオンセラー作品が多数生まれました。テクノロジーの進化で制作環境も視聴環...もっと読む

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コメント

rt_1973 はぁぁ。あの頃にそんなことが… 2ヶ月前 replyretweetfavorite

ks1234_1234 ABEDONさんて阿部Bさんか。わかんなかった。無知でごめんなさい。 2ヶ月前 replyretweetfavorite

ban_umi 『愛のある人かどうかって、みんなわかるんだよ。』 業界は違えど、通じるものはあるよなぁ。 3ヶ月前 replyretweetfavorite

ShosukeSekikawa これは面白い対談だ!ユニコーンのABEさんと言われれば反応しないわけにはいかない笑 3ヶ月前 replyretweetfavorite