努力は絶対、見せたくなかった #5

必死な様子は誰にも見せたくない。練習してなんか全然していないフリをして、試合になったら鮮やかにホームランを打つ。新庄流・スターの美学とは? ◆話題沸騰!『わいたこら。』を全文公開【毎週火・木更新】◆

福岡から関西に出てきたときは、もうドキドキものだった。
自分の力がプロで通用するのか、不安のほうが大きかった。

でも、初めてのキャンプに参加してすぐに思った。
「俺のほうが足は速いし、肩も強いし、守備もうまい。おいおい、俺が一番うまいんじゃないか、プロ野球ってこんなもんか」
僕は自分が素質に恵まれていることを神様に感謝した。

課題はバッティングだった。
師匠だった柏原さん(柏原純一、当時二軍打撃コーチ)からは「バッティングフォームを変える必要はないから、フルスイングだけを意識しろ」と言われていた。
僕はもっとパワーをつけなければ、と考えた。

で、猛烈な筋トレに励むわけだけど、努力している姿は誰にも見せたくなかった。
みんなが110kgのベンチプレスでヒーヒー言っているとき、僕は同じように全力のフリをして110kgを上げていた。でも、これはウォーミングアップ。

みんなが練習を終えると、僕もいったん室内練習場を後にする。そして、しばらくしてから、仲良くなった係員のおっちゃんに「カギを貸してください」と頼む。
おっちゃんは「おう、また来たのか」と言いながら、僕にカギを貸してくれる。そうやって1人で室内練習場に戻って、ベンチプレスの続きを始めていた。

20歳のとき、僕は135㎏ぐらいのベンチプレスを上げていた。何しろ練習場にたった1人だから、何か事故があったら誰にも助けてもらえない。
135㎏のバーベルを持ち上げているときは、もしも首に落ちてきたらどうしようという怖さと闘っていた。でも、恐怖感よりもスターになりたいという気持ちのほうが強かった。

周りのプロ野球選手の多くは、「努力してます」とアピールしたくて練習していたように思う。
監督が見ているときには、ものすごく声を出して一生懸命に動くけど、誰も見てないところでは、手を抜けるだけ抜く。

でも、僕は努力をアピールするために練習するつもりはなかった。 常に「スター」になるための練習をしていたから。
監督やコーチの目なんかお構いなしに、キャッチボールも一生懸命だし、試合が終わってからの練習も人の4倍くらいやっていた。

夜になってからもとにかくバットを振り続けていた。
両手の平はマメでボロボロで、手が痛すぎて、朝晩、顔を洗うのもしんどいくらいだった。

だけど、必死な様子は誰にも見せたくなかった。
練習なんか全然していないフリをして、試合になったらあっけらかんとホームランを打つ。
「あ、入っちゃった」みたいな顔をする。
みんなから「こいつ天才だ」と言われる。それが、僕にとっての理想のスターの姿だった。

“努力したアピール”なんて格好悪いと思ってたから、当時は黙っていたけど、今なら素直に言える。才能も大事だけど、努力も大事。 好きなことはとことん努力すべき。才能に恵まれて、必死で努力して、そうしてやっと一流になれるのがプロの世界っていうことだ。

今なら素直に言える。
才能も大事だけど、努力も大事。

プロ入り3年目でブレイク。甲子園を舞台に大暴れ!

僕が野球選手として活躍し始めたのは3年目になってから。

そのシーズンで初めて中村(勝広)監督から「明日、スタメンで行くぞ」と言われたのが、地方球場でのゲームだった。 普通は「やってやるぞ!」となるんだろうけど、僕は生意気なことに「地方球場で活躍するのはなんか違うな」なんて思ってた。

そしたら、たまたま雨が降ってゲームは中止。
で、次の試合も別の地方球場でやることになってたんだけど、また雨天中止。

3度目の正直は、甲子園。7番サード、スタメンだった。もう、アドレナリン出まくりで球場入りしたのを覚えている。
シーズン初スタメン、相手は大洋ホエールズで、ピッチャーは有働(克也)さんだ。 初球の速いストレートを思いっきり叩くイメージができていたんだけど、来たのはまさかのスローカーブ。
タイミングが外れ、体勢は崩れまくりで、なんとかバットに当てたボールは、予想外に高く上がって、そのままスタンドに入ってしまった。

初スタメンで、プロ入り初のホームラン!

このホームランをきっかけに、僕はスタメンに定着するようになった。
僕は、なぜか“ここ!”というチャンスで結果を出してしまう。いわゆる「持っている」人間だ。
あのホームランがなかったら、きっと僕は二軍に送り返されていただろう。もしかするとタイガースの4番を打たなかったかもしれないし、アメリカに行かなかったかもしれない。

その年は、「亀新フィーバー」という言葉も生まれ、タイガースに注目が集まった。 「亀」というのは、亀山努さん。めっちゃ仲良しの先輩だ。亀山さんは、開幕一軍でスタートしていて、派手なヘッドスライディングで大活躍していた。 僕はそれを二軍の寮にあるテレビで見ていた。
「すげーな、亀山さん」と思うと同時に、「絶対にすぐ抜いてやる」「俺のほうがもっと上を行ってやる」と心に決めた。 先輩だろうが、仲良しだろうが、誰にも負けないという気持ちがないと、プロでは成功できない。絶対に。

で、遅れて一軍に上がった僕もプロ入り初の4番を打ち、だんだん活躍することが増えていった。

まさかの敬遠球サヨナラヒット。
僕は周到に計画していた

10年目。野村(克也)監督がタイガースにやってきた。
世間では、「野村監督はID、新庄は天然」みたいなイメージが強い。僕とは相性が悪いように見えるせいか、野村監督と僕は仲が悪いとか、マスコミにもいろいろ書かれた。

でも、僕は野村監督が好きだった。
そして、はっきり言って、僕は野村監督以上に考えて行動するタイプの人間だ。

最初に野村監督に会ったとき、監督は僕にいろいろ話をしてくれた。30分くらい続いたあと、僕はこう言った。
「いっぺんに言われるとわからなくなるので、また今度にしてください」 スポーツ紙に「新庄は頭が悪い」とか書かれるだろうとは思ったけど、僕なりの計算があった。

一度に監督の話を聞いてしまうと、監督と話すチャンスがなくなってしまう。ちょっとずつ何回も話すチャンスをつくれば、いろんなことが聞けるんじゃないか、と。 しかも、ただ「はいはい」と聞くだけじゃなくて、わからないことはどんどん質問しようと考えた。うっとうしいと思われてもかまわない。 野村監督から何かを吸収できれば、もっとレベルアップできるかもしれない。 僕はとことん、計算して動いていたんだ。

計算といえば、敬遠球を強引に打ちに行き、サヨナラ勝ちを飾ったときもそう。 その年、ケガで開幕一軍を外れた僕は、復帰してから打撃好調で、5月の月間MVPを獲得していた。 チームも好調で、首位を争う巨人との一戦。本拠地の甲子園で、応援もヒートアップしていた。

実は、その2日前、広島戦で似たような敬遠の場面があった。敬遠のボールを見ていて、「これ、打とうと思えば打てるんじゃないか?」とひらめいた。

次の日は試合がなくて、バッティングの練習中、キャッチャーに立って捕球するようお願いした。で、ピッチャーにはコースを外して投げてもらう。 球筋を1球、2球と見ているうちに、ピッチャーの左に打つというイメージができた。実際に、高めの球を打つ練習も繰り返した。

そして当日。さっそく敬遠の場面がやってきた。ピッチャーは槙原(寛己)さん。槙原さんの顔には「新庄ごときになんで敬遠?」という表情が出ていた。ベンチのサインに従うのが嫌だったんだろう。

コーチの柏原さんからは、「最初はバッターボックスの遠くに立て」とアドバイスをもらっていた。1球目に中途半端に外した球が来た。それを見送ったあと、ちょっとずつ前に出て行った。
2球目。柏原さんから言われた通りに前に踏み込んで叩きつけたら、ボールはレフト前に転がっていった。サヨナラヒットだ。
まさかサヨナラヒットで試合が終わるなんて誰も思わないから、甲子園はお祭り騒ぎだった。翌日のスポーツ紙の一面は、僕が敬遠球に食らいついているシーン。

もちろん野村監督からも、「好きにせい」と、ちゃんと合意をもらっていた。
あれは、その場の思いつきでプレーしたと思っている人も多いけど、僕は何でも計算して、準備してからやっている。
計算しまくってから、今、思いついたかのように鮮やかにやってみせる。それが新庄流だ。

一寸先は闇じゃない。一寸先は、光なんだ!「栄光」「挫折」そして「復活」。波乱万丈エピソード!

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新庄剛志『わいたこら。』

新庄剛志

テレビ『しくじり先生』で、「20億円を使いこまれていた」と衝撃の告白をし、日本中にセンセーションを起こした新庄剛志さん。失意のどん底で、何を考え、どう乗り越えたのか!? 新庄剛志さんが自身の半生を綴った『わいたこら。』(学研プラス)を...もっと読む

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コメント

marro_n0109 すごい。 4日前 replyretweetfavorite

tetsutaroun 新庄最高 4日前 replyretweetfavorite

u_furuya この連載好き → 4日前 replyretweetfavorite