1972年1月。 僕がオギャーと生まれたとき、親父は丸々と肥えている僕を見て、「こいつは将来相撲取りになる!」と喜んだらしい。
当時、強かった相撲取りのしこ名から「剛」という文字を取って「剛志」になったと聞かされた。
自分で言うのもなんだけど、運動神経はめちゃくちゃいい子どもだった。
運動は何をやっても一番だった。
たとえば、学校でマラソン大会があると、いきなりダッシュしてトップに立って、目立とうとするやつっているよね?
そんなやつは、だいたい2週目くらいからバテてきて、結局は真ん中くらいでゴールする。
でも僕だけは違った。
最初からぶっちぎりのスピードでダッシュして、そのまま1位でゴール。2位から後の子がゼーゼー言いながら走ってくるのを、体育座りで15分くらい待っている。そんな子どもだった。 今の言い方だと「驚異的な身体能力」というやつだ。
あるとき、体育の先生がお遊びで「今日の授業はこれをやるぞ」と言って、バック宙をして見せたことがある。
「おい、新庄、やってみろ」
言われた僕はみんなの前に出て行って、先生の真似をしてバック宙を決めた。バック宙をするのは初めてで、先生がやるのを見ただけで、一発でできた。
もちろん、クラスのみんなは拍手喝采だ。
サッカーを始めても、2日目には誰よりもうまくなっていた。バスケットでも、バレーボールでも、何でもそうだった。
振り返ってみると、僕は、自分が体を動かすとみんなが驚いたり喜んだりしてくれることを、子どものころからよくわかっていたんだと思う。
小学校2年生のときだったろうか。
親父に連れられて河原に遊びに行ったことがある。しばらくすると、親父は他の大人たちと一緒に石を投げ始めた。
誰が一番遠くまで投げられるか競争が始まった。
投げられた石が「ビューン」と向こうに飛んでいく。
何回も見ているうちに確信した。
「あ、俺のほうが遠くに投げられる」
そんなタイミングで、親父が僕を見てこう言った。
「剛志、ちょっと来い!お前も石投げてみろ」
僕は、その辺に転がっている石を拾って、反動をつけて思いっきり投げた。
石が飛んでいる時間は、とても長く感じられた。 ずっと向こうで小さく石が地面にはねるのが見えた。80メートルは行ったと思う。ぶっちぎりの遠投だった。
周りの大人たちがびっくりしていた。
「お前、すごいな!」 見ると親父も興奮していた。
「こいつは、もう将来、プロ野球選手だな!」
じつは、野球が一番下手だった
そこから僕は野球をやることになった。
でも、本当のことを言うとサッカーのほうが好きだったし、うまかった。
いろんなスポーツの中で、野球が一番下手だった。
僕の小学校、中学校時代をよく知る同級生からは、今でもよくこう言われる。
「なんでお前がプロ野球選手になれたっちゃろうね?」
「なんで、そんなスターになれた?」
たしかに肩は強かったし、足も速かった。
けど、バッティングなんか超ダメダメだった。陸上とかやったほうが絶対に成功すると、みんな思っていた。
でも、僕はなぜか野球で成功すると信じていた。
僕はうまくいかないことや苦手なことがあると、逆に燃えてしまうタイプだから。
できない自分が許せない。
自分よりもうまい人と同じレベルになりたい、抜きたい。
その気持ちをパワーに変えられるから、がんばれる。
逆に、最初からうまくいくと飽きてしまう。「もっと面白いことないの?」と思ってしまう。プロになるまで続けられたのは、野球が一番下手だったからだ。
ちなみに、なぜ目立つピッチャーじゃなくて、外野手だったのか。
野球はピッチャーが投球してすべてが始まる。だから、投げる前から注目が集まる。でも僕からすると、最初から注目されるとわかっているのが面白くない。
僕には、目立たないポジションで目立ちたいという野望があった。どうやったら外野手として目立つか。それを考えると、不思議とワクワクした。要は、当たり前なことじゃなく、工夫して、目の前の壁を乗り越えることが好きだったんだ。
でも、
僕はなぜか野球で成功すると信じていた。
僕はうまくいかないことや
苦手なことがあると、
逆に燃えてしまうタイプだから。
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