血は大嫌いだ。
高校時代に生物の授業で自分の血液型を調べる授業があった。
先生の指示に従って輪ゴムを小指の先端に巻き付け、しばらくしてから指に針を突き刺した。
でも、 ちょっと刺したぐらいで血は出てこない。
何度かチクチクやっているうち、スゥーと血の 気が引いて気分が悪くなり、保健室に連れていかれたことがある。
だからいまも血が出る ドラマや映画は見ないようにしている。
そんな性格だから、将軍徳川綱吉の気持ちがよくわかる。
綱吉は、これから着る下着に誤って血を付けた世話係に閉門を申しつけた。
また、鼻血 や痔、腫れ物などを患っているものは、入浴しても穢けがれを清めるのは無理なので出仕してはならないと触穢(そくえ)の禁令を発した。
とにかく彼も血が大嫌いなのだ。
そうした傾向を分析した国文学者の前田愛氏は、綱吉が生類憐みの令を出したのは、犬など動物を虐待することによって発生する血による穢れをひどく嫌ったからだと断じた。
奇想天外な論だが、綱吉と対立していた水戸黄門(徳川光圀)が綱吉の意向で藩主引退に追い込まれたとき、家臣への挨拶で「持病の痔がひどくなり、粗相してしまうと困るので辞任する」と述べている。
前田氏の説をとれば、黄門様の綱吉に対する最大の嫌みであろう。
それにしても、黄門が肛門の病気に悩んでいたとは……。
ただ、前田氏の説は少数派で、近年は、綱吉は戦国時代の遺風が残る殺伐とした社会を、 儒教道徳や仏教の慈愛精神を普及することで変えていこうと考えており、生類憐みの令も そうした政策の一環だったという説が有力になっている。
徳川綱吉は、もともと将軍になる予定の人物ではなかった。
しかし、一六八〇五月、兄の将軍家綱が跡継ぎがないまま四十歳で死去してしまい、にわかに将軍に就任したのである。
このときすでに三十五歳の壮年で、館林藩主として活躍していた。
たいへん好学で、 とくに儒教(朱子学)に傾倒していた。
だから将軍になると、幕府の儒者林家の孔子廟と 私塾を拡大して湯島へ移した。
これが湯島聖堂と聖堂学問所である。
そして幕臣に対し、学問所で学ぶよう通達したのである。
そのうえ綱吉は、学者から朱子学の講義を受けるだけでなく、なんと自らも幕臣や大名たちに講義を始めたのである。
その回数は生涯に四百回以上におよんだという。
武断政治から文治政治へ
綱吉は戦国の野蛮な風習を消し去り、儒教の徳や仁によって世の中を統治しようとした。
武断政治から文治政治への転換を目指したのだ。
武家諸法度(武家を統治するための幕府 の基本法典)の第一条も「文武弓馬の道、専もっぱら相あい嗜たしなむべき事(文武両道を心がけて励め)」から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」に変えている。
「忠孝」、「礼儀」という儒教の道徳を挿入したのだ。
さらに綱吉は、東大寺大仏殿の再建、護国寺の創建や根津神社の社殿造営など、神仏も篤く崇敬した。
じつは綱吉の時代、夜になると江戸の町では辻斬りが横行し、野蛮なカブキ者たちがしょっちゅう暴力沙汰をおこしていた。
あの水戸黄門も若かりしころ、寺の軒下に寝ていた 貧しい人を面白半分に引き出して斬り殺している。
こうした殺伐とした社会を、綱吉はなんとしても変えたいと願ったのである。
そうした彼のまなざしは、犬や猫だけでなく人間 にも向けられていた。
捨て子や行き倒れた人を保護する法律もつくっている。
信じられないかもしれないが、当時は普通に子供を捨てたり、行き倒れた人を見捨てたりしていた。
それが日本社会の現実だった。
ともあれ、こうした徳川綱吉について、教科書の評価も大きく変わりつつある。
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