一度だけの令ではなく、二十年にわたり、百回以上も発令された
歴史上の人物で「犬」を連想させる人は?
そう質問されたら私はもう、徳川綱吉しか思い浮かばない。
江戸幕府の五代将軍である。 おそらくみなさんもそうだろう。
犬を中心とした極端な動物愛護令「生類憐みの令」を出して、庶民に犬公方と批判されていたと歴史の授業で習ったからだ。
ただ、よく勘違いされるのだか、生類憐みの令は一度だけの法律ではない。
二十年以上にわたって、百数十回も発令された動物愛護に関する法律の総称をいうのだ。
最初の法令は、将軍が道を通過するとき、犬や猫をつながずにそのまま放しておいて良いという、特段変わったものではなかった。
ところがやがて、魚や鳥を生きたまま食用として売ってはならぬ、犬や猫に芸を仕込んで見世物にしてはならぬ、犬に危害を加えた者を見たら褒美を与えるので報告せよ、鰻やどじょうを販売するな、釣りもダメと、過激で異常な内容になっていった。
このため人々は、犬を誤って傷つけたら大変だと恐れ、こっそりと捨てるようになる。
だから野犬が江戸市中に急増した。
でも、怖がって誰も野犬に餌を与えない。
このため、 腹を減らして子供を襲う犬も現れはじめた。
さらに、この法令に反発する人の中には、そんな犬を虐待する輩も出てきた。
こうした状況が生まれると、綱吉は驚くべき政策をとる。
大きな犬屋敷をつくって、そこに江戸市中の犬を収容しはじめたのである。
始めに喜多見村、次いで四谷(約一万九千坪)や大久保(約二万五千坪)に広大な犬屋敷をつくっていった。
しかも、カゴに乗せて四谷や大久保まで犬を運んだというから馬鹿げている。
さらに一六九五年、中野村に犬屋敷の建設を始めた。この中野の犬屋敷は、最大時に約三十万坪におよび、常時十万~二十万頭の犬を飼育していたとされる。
施設の中には犬医者(獣医)も常駐していた。
犬屋敷のエサ代も馬鹿にならず、いまの金額にして七十億円という巨額にのぼり、幕府はその費用を人々から税として徴収したのである。
それでも犬を収容しきれず、中野村を中心に近隣の農民たちに金銭を与えて犬の飼育をゆだねた。
おそらく世界史的にも前代未聞の政策だと思う。
それにしても、なぜ綱吉はこんな奇妙な法律を出すようになったのだろうか——。
その理由については、綱吉がなかなか跡継ぎに恵まれず、母・桂昌院が帰依する僧の隆光に相談したところ、「それは将軍様が前世で多くの殺生を行った報いでございます。もし生き物をいつくしみ、殺生を禁ずるのであれば、必ず男子に恵まれます。あなた様は戌年のお生まれゆえ、とくに犬を保護するといいでしょう」とアドバイスを受けたからだといわれる。
有名な逸話なので、知っている読者も多いだろう。
この話の出典は『三王外記』という書物である。
著者は不明だが、日本史の教科書にも登場する、『経済録』を著した経世家・太宰春台だとする説もある。
綱吉のことについてかなり面白おかしく書いており、この話は史実として信用できないとする学者が多い。
でも、個人的には相当、犬が好きだったのは間違いないだろう。
「じゃなきゃ、あそこまで犬を保護するはずはない」
そうBS.TBSの『諸説あり!』のディレクターに告げたら、きっぱりと否定された。
この番組で綱吉を取り上げることになり、私はゲストとしてスタジオで綱吉について話すことになっており、詳細な打ち合わせをしていたときのことだ。
ディレクターは、「今回取材した九州大学の福田千鶴教授は、綱吉が犬を飼っていた記録はないし、とても愛犬家だとは思えないと話してくれた」と言うのだ。
それを聞いて私は思わず「ウソだ」という言葉が出てしまい、その勢いにまかせて反論 した。
「だって教科書の副読本には、綱吉が使った犬型の湯たんぽの写真が掲載されていた。犬 好きだから、そうしたグッズを使っていたんでしょ」と——。
これを聞いたディレクターは、さっそく複製を所蔵している博物館に確認をとってくれた。
すると、「この湯たんぽを綱吉が使用したという確たる証拠はないので、現在はそう断言していない」とのことだった。
私の学んだ歴史が古かったのである。
さらに意外だったのは、生類憐みの令に違反すると厳しく処罰され、多数の人々が苦しんだということも、どうやら眉唾らしいのだ。
『近世日本国民史』という百巻におよぶ大書がある。
国民的な作家である徳富蘇峰が戦前 から四十数年にわたって記した歴史書である。
多くの資史料を用いて比較的客観的に書かれており、この仕事が評価されて蘇峰は帝国学士院から恩賜賞を与えられている。
当時から多くの知識人に愛読され、本書が日本人の歴史観に与えた影響は少なくない。
そんな『近世日本国民史』には、生類憐みの令により「科とが人にん毎日五十人、三十人づゝあり、打首になるもあり、血まぶれなる首を俵に入れ、三十荷ばかりも持出す」と記されている。
毎日罪人が五十人出るとすれば、単純計算で年間一万七千人近い数になり、これが二十年以上続いたわけだから処罰者はなんと、三十五万人にのぼることになる。
また過酷な例として、蚊を叩いて潰しただけで島流しになったとか、病気の息子のために燕の肝を食べさせようと、吹き矢で燕を殺した父親は子供と一緒に処刑されたといわれる。
かなり有名な話だが、どうやら両方とも史実ではないらしい。
東京工業大学の山室恭子教授が調べたところによれば、生類憐みの令で処罰された事例はわずかに六十九件、そのうち死刑は十三件。
処罰されたのはほとんど下級武士で、町人は少なかったという。
そのうえ、地方ではそれほど法令は徹底されなかったというのだ。
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