一故人

​さくらももこ— グータラなまる子、働き者のももこ

漫画『ちびまる子ちゃん』やエッセイ集などで、人気を集めたさくらももこ。その突然の訃報は、多くの人に驚きと悲しみをもたらしました。今回の「一故人」は、彼女の足跡をたどります。

親友が「社長さんみたい」と感心するほどのしっかり者

《私は働き者ですが、まる子は怠け者です。私はしっかり者ですが、まる子はだらしがない。しっかりしろよと言いたくなります》(『MOE』1999年11月号)

マンガ家のさくらももこ(2018年8月15日没、53歳)は、《さくらさんとまるちゃんのいちばん違うところは?》との質問に対し、こんなふうに答えた。「まるちゃん」とは言うまでもなく、さくらの代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公である小学3年生の女の子を指す。

『ちびまる子ちゃん』はエッセイマンガと銘打ち、小学生のころの作者をモデルにしていることを思えば、先のさくらの回答はちょっと意外にも思える。事実、次の発言にもあるとおり、彼女自身、子供のころは「怠け者」で「だらしがなかった」ことを認めている。

《高校まではテレビを見たり、漫画を読んでばっかりで、グータラしていたんですよ。三年寝太郎なんていうものじゃないくらい、馬鹿みたいに寝ていましたし。母親が「情けないよ、この子は」と、泣いちゃったくらいですからね。「こんな子を産んで損したよ、私は」って(笑)》(『週刊文春』1992年12月17日号)

そんな怠け者がマンガ家になってからは一変する。マンガの連載だけでなく、自作の『ちびまる子ちゃん』や『コジコジ』がテレビアニメになると脚本を手がけた(原作者のマンガ家が脚本まで書くのは珍しい)。文才も発揮し、『もものかんづめ』(1991年)をはじめ、エッセイ集は次々とベストセラーとなる。このほかにもイラストや絵本の仕事をこなし、テレビドラマの脚本やラジオ番組のパーソナリティを担当したこともあった。多忙をきわめた当時、彼女はこんなことを語っている。

《私、とにかく仕事が好きなんです。今の仕事が終わってもまたすぐに、先の仕事をやるぐらい好きなんです。(中略)オフにしようと思えばできるんですけれど、やりたい仕事が急にきて、それができないのは嫌だから、ふだんの仕事はなるべく早目にやっておくんです。(中略)すごく仕事がたて込んでいる時は、体力が尽きてもう描けなくなったという時に二時間ぐらい仮眠を取って、また起きて……という感じで。だから、連続何十時間も起きていることもありますよ。ふだんは朝寝て、お昼起きて……睡眠時間は四、五時間ですね。(中略)八時間も寝ると、寝過ぎで、体調が悪くなっちゃうんですよ》(前掲)

かつては寝てばかりで親に泣かれた彼女だが、このころには逆に「少しは休んでよ」と心配されるまでになっていた。本人いわく《きっとなりたかった漫画家になれて張り合いがあるから、チャキチャキやっているんでしょうね》(前掲)。

忙しいなかでも、作家の吉本ばななやコピーライターの糸井重里など各方面に交友関係を広げた。女優の賀来千賀子もその一人で、さくらのエッセイを読んでファンレターを送ったのを機に親しくつきあうようになったという。その親友から見て、さくらももこはこんな人物であった。

《さくらさんは、子供の部分と大人の部分が同居してる方。だからすごく純粋な、子供らしい可愛らしい“まる子ちゃん”の部分もあるし、まるちゃんの中にも、非常にシビアにものを見ている部分ってありますよね、なんていうのかな……たとえば社長さんみたいな視点でものを見るようなキャパの大きいところもあるんです。私、何度言ったかしら、「しっかりしてるよね」「ほんとにえらいね」って。いつも「そんなことないヨ」って笑ってますけどね》(NHK「トップランナー」制作班・編『トップランナー VOL.5』

後年、さくらが最初の夫と離婚するに際し、賀来は自分の家族とともに協力することになる。なかでも引っ越し先の手配など実務的なことをいちばん手伝ってくれたのが、賀来の兄だった。彼は流通大手のセゾングループに勤務しており、社長秘書を担当したこともあるという。

しばらくして彼が転職を考えていると知ったさくらは、自分のプロダクションに入ってもらえないかと画策。賀来とともに数度にわたって説得した結果、スカウトに成功する。このとき、さくらが《もしも私が死んだら、書店では一応“さくらももこ遺作フェア”というのをやってくれるでしょう。そんな時こそお兄ちゃんの力が必要なんです》などと自分の没後のことまで持ち出して説得する様子は、エッセイ集『さくら日和』にユーモアたっぷりにつづられている。ともあれ、会社の経営のため必要な人材をめざとく見つけ、獲得に動いたのは、賀来の言うとおり「社長さん」らしい手腕をうかがわせる。

かつてはまる子と同じグータラだった女の子が、いかにして変わっていったのか。その足跡をたどってみることにしよう。

「さくらももこ」はもともと芸名だった!?

さくらももこは1965年5月、静岡県に生まれた。出身地は『ちびまる子ちゃん』にも出てくるとおり、清水市(現在の静岡市清水区)である。実家は八百屋を営んでいた。

小学生のころは授業をまるで聞かない子供だったようだ。たとえば学校の外から焼き芋屋の売り声が聞こえてくると、《お芋、おいしそうだな。いま、ここを抜け出して買いに行ったら、まにあうかな。あっ、今日はお金を持っていない。明日からお金用意しておかなけりゃ……。そうだ、お小づかいもらっていないや。お年玉、今年は少なかったのはなぜだろうか……》などと次々と空想が膨らんできたという(さくらももこ『もものかんづめ』文庫版「巻末お楽しみ対談」)。参観日に来た母親に上の空でいるのを見破られ、注意されたこともあった。

母親に怒られることはしょっちゅうだったが、どこか釈然としないものを感じていた。本人の言い分はこうだ。

《だって、私、怒られるようなことをしていないじゃないですか。万引きをしたとか、家庭内暴力で家のものを壊したりとか、人にケガさせたりとか……。そういうふうに人に迷惑をかけたのなら、怒られてもしかたないと思うし、反省もしますけど、そういうことは一切していませんから、怒られる筋合いのもんじゃないと子供の頃から思ってました。授業中に居眠りをしてたって、人に迷惑をかけていないし……》(前掲書)

子供ながら、自分のなかで何が悪いかそうでないか、明確な線引きがあったらしい。まわりのよい子たちを見ても、「ああ、偉い子な、あの子たち」と思うだけで、見習う気はさらさらなかったというから、ある意味、一本筋が通っている。

マンガばかり読んでいて怒られたこともある。中学生のときには水島新司の『ドカベン』に夢中になり(登場人物のなかでも里中君に熱を上げたとか)、風呂に入ってまで読んでいたので、母親の怒りが爆発し、窓から本を捨てられたという。一方で、絵や作文は得意で、表彰されることもあった。そんな子供がマンガ家になりたいと思うのは自然な流れだろう。

マンガを描き始めたのは、高校2年生の終わる春休みだった。このときは正統派の少女マンガ家をめざしてラブコメを描き、昔から愛読していた集英社の月刊誌『りぼん』に投稿するも落選。ものすごくショックを受け、落胆したのもつかの間、今度はお笑い芸人になれないかと考え始める。お笑いも昔から好きだったからだ。

じつは「さくらももこ」というペンネームも、もともとは芸人としてデビューする場合を想定してつけた名前だった。かわいらしい花の名前がいいと思って、いくつか書き出して選んだところ、「すみれ」と「さくら」と「もも」が残った。なかでもすみれの花は大好きだったので、これを名前にしようかと思ったのだが、《ふと「さくら、もも」と書いてあるのを見て、さくらももこにしたらいいんじゃないかとひらめいた》という(さくらももこ『ひとりずもう』)。

しかし、どうすれば芸人になれるのかがわからない。そんなある日、地元の市民会館で開かれた演芸会で、春風亭小朝の落語を聴きながら、ふと「小朝さんに弟子入りを申し出たらどうか」と思い立つ。それで終演後、会場から出てくる小朝を待ってみたものの、本人を目の前にしながらついに声をかけることができなかった。《こんなに勇気が無いなんて、これじゃお笑い芸人なんてとてもなれっこない》と、結局この夢もあきらめてしまう(前掲書)。

すでに学校には地元の短大への推薦入学希望を出していた。短大の国文科の推薦希望者は、夏休み前に作文の模擬テストを受けることになっており、マンガも芸人の夢も断念した彼女は、流されるままに受験する。もともと作文は得意とあって、気軽な気持ちで書いたのだが、これが思いがけず高評価を受ける。「エッセイ風のこの文体は、とても高校生の書いたものとは思えない。清少納言が現代に来て書いたようだ」との講評に、冷静になろうと努めつつも、やはりうれしさがこみ上げてきた。このあと学校から帰宅して、風呂場でシャワーを浴びていると、ホースから水がキラキラ輝きながら流れるのを見て、ふいに「エッセイをマンガで描いてみたらどうだろうか」とひらめく。

こうしてさくらは正統派からエッセイマンガへと路線変更しながら、再びマンガ家をめざした。投稿第2作は『きらきら絵日記』と題して、駄菓子屋のトコロテンやハエ取り紙のことなどをエッセイ風に描き、初めて入賞。さらに短大在学中の1984年、学校の教師たちのさまざまなエピソードを描いた『教えてやるんだありがたく思え!』(『りぼんオリジナル』冬の号に掲載)でデビューが決まる。

その後も何作か読み切りを発表し、短大卒業後は、本格的にマンガ家生活に入るため上京するつもりだった。しかし親がなかなか許してくれない。そこで妥協策として東京の出版社に就職し、雑誌連載が決まったら退職することに決めた。

営業課に配属された会社員時代はまったく仕事ができず、やったことといえば、せいぜい課の花見で場を盛り上げたぐらいだった。この間、念願の連載が決まり、退職するきっかけをうかがっていたところ、勤務中に居眠りをして注意される。以前から居眠りの常習犯だったため、係長から「君はよく眠ってるけど、何か夜の商売でもしてるのかね」と嫌味たらしく訊かれると、マンガを描いていることを打ち明ける。すると「マンガか会社かどっちかにしろ」と言われたので、迷わずマンガを選んだのだった。入社からわずか2ヵ月後のことだ。

こうして専業マンガ家となった彼女が、『りぼん』1986年8月号からスタートした初の連載こそ『ちびまる子ちゃん』だった。

ブームを機に自分を見直した冷静さ

『ちびまる子ちゃん』は1989年に講談社漫画賞を受賞、翌90年1月からはテレビアニメの放送が始まる。アニメ化にあたり、パイロット版を見せてもらったさくらは、自分の作品のイメージとやや違和感があったので、「もっと原作に近い絵とムードにしてほしい」と注文したという。制作側はそれに応えるべく監督にベテランの芝山努をつけた。芝山の監督補を務めた須田裕美子は、初対面時に絵コンテを見せたところ、さくらがその場で絵を直し始めたことに、作品へのこだわりを感じたと、のちに語っている(『富士山』第2号)。

ただ、アニメの第1回の試写会では評価が分かれ、さくらによれば、《怒って帰っちゃったスポンサーもいたという話を聞きました》という(『週刊文春』1992年12月17日号)。期待半ばで放送がスタートした『ちびまる子ちゃん』だが、やがてブームを巻き起こす。視聴率はうなぎ上りで、1990年10月28日の回は39.9%とアニメ番組では過去最高を記録。さくら自ら作詞してB.B.クィーンズが歌ったエンディングテーマ「おどるポンポコリン」も大ヒットし、この年の日本レコード大賞に輝いた。

しかし本人はこのブームをきわめて冷静にとらえていた。数年後、彼女はこんなふうに振り返っている。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

namatsuchiya001 さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ|近藤正高 @donkou | 5ヶ月前 replyretweetfavorite

yukko_note さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ|近藤正高 @donkou | 8ヶ月前 replyretweetfavorite

bubumo さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ|近藤正高 @donkou | 8ヶ月前 replyretweetfavorite

tkryun あらためて、すごい人だったんだなあ。才能と運と情熱と冷静さ。コジコジ読みたいな。>さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ|近藤正高 @donkou | 8ヶ月前 replyretweetfavorite